「光本のサッちゃん」が死んじゃった
(都合により26日のブログは休載します。)

 実家の柳橋・深川亭の筋向いにあった芸者置屋「光本」に、僕より一つ年上の娘がいた。
「光本のサッちゃん」は優しくて、鳥越神社の学習塾にお手手つないで通った。必ず、今川焼きを食べながら帰ったのを覚えている。
 それほど、美人だとは思わなかった。が、人気者で……多分、売れっ子芸者になるんだろう?と思っていた。
 「私、養女よ」と言っていた。が、養母の女将さんに可愛がられ、大事に大事に育てられた。その頃、踊りの稽古に夢中だった。
 上野学園高等学校音楽科を1962年に卒業。舞踊家の六代目藤間勘十郎に可愛がられ、勘十郎と親交のあった初代水谷八重子の目に留まり「新派」入りした。
 明治座の舞台『望郷の歌』(1955年)にて子役デビュー。サッちゃんは一躍、町内の有名人になった。
 芸名は「光本幸子」(本名・深谷幸子)。1969年の映画『男はつらいよ』で、初代マドンナ・冬子役に抜擢されてからは、こちらから声も掛けられないような有名人になった。
 羨ましい存在だった。友人に「あのマドンナは幼馴染」と自慢したこともある。
 でも、明治座社長と結婚したあたりから……色々なことがあったのか、あちこちから「苦労話」が聞こえてきた。
 その頃には芸者置屋「光本」も廃業。深川亭の廃業。柳橋の雰囲気も花柳界からビジネス街に変わっていった。
 サッちゃんは離婚した。
 華やかな世界から一度は身を引き2男1女にも恵まれたが、新橋演舞場の舞台「陽暉楼」で、休演した女優の代役でカムバックした時、「舞台に、テレビで生きたい」と思ったのだろう。
 復帰後、 TBS 熱血母さん事件簿2 (平成5年)TBS 番茶も出花 (平成9年)で話題になっていたのだが、その後は特別、ニュースにもならなかった。
 最近、柳橋2丁目に「光本幸子連絡所」という看板を下げた民家があるのを発見。「一度、覗いてみるか」と思っていたのだが……「光本のサッちゃん」は2月22日、食道癌の為、連絡所に近くの病院でなくなった。
 びっくりした。69歳。あまりに若い。
 鳥越神社の学習塾に通ったころを思い出し……会いに行けば良かった、と後悔する。
 でも、人間、あっけないものだ。同じ世代が死ぬ頃に差し掛かった。
 せめて、桜の咲くまで……寂しいじゃないか。

<何だか分からない今日の名文句>
桜は咲くより……散る運命