タレ自慢!「喜川の鰻」最後の日

 生まれ育った東京?柳橋では「鰻は 喜川」だった。
 「喜川」は明治27年、東京市浅草区茅町(つまり、現在の台東区柳橋)で開業。創業者の喜七は下総国香取の川魚問屋を営む家の二男。上京して、日本橋魚河岸の川魚問屋で修行した後、柳橋に店をかまえた。
 ご存知だと思うが、柳橋は、神田川が隅田川に合流するところ。江戸、明治、大正、昭和初期、日本で一番の栄えた花柳界である。
 喜川の江戸前の鰻は一流の芸と気位を持つ芸者たちに愛されて来た。中串。蒸しをきかせ、さっぱりとしたタレが自慢。
 創業以来、特選醤油と本味醂の煮切りでタレを作りつけては焼くを繰り返し、「蒲焼き」から、にじみ出るこくが、喜川の独自のタレの味を作り出した。
 戦時中、店は全焼したが、タレは「疎開」させて守りぬき、今でも健在である。
 その喜川に、嫁に行ったのが、実家「柳橋?深川亭」の筋向いにあった料亭「川奈」の二人姉妹の姉の方だった。
 妹の方が僕の育英小学校の同級生。二人とも、評判の美人だった。
 妹の方は、両国の「かど家」に嫁いだ。
 「かど家」は1862(文久2)年創業の老舗鳥料理店。池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の舞台にもなっている。(例えば「見張りの見張り」では「南へ行くと二ッ目橋。その角地に、長谷川平蔵なじみの軍鶏鍋屋〔五鉄〕」とある)
 創業以来の名物はしゃも鍋。軍鶏の八丁味噌仕立ての味噌煮も看板らしい。(東京都墨田区緑1-6-13 03-3631-5007)
 「喜川」の話に戻ろう。
 柳橋は東京オリンピックの頃、川の護岸工事、高速道路建設などで隅田川の粋な風情がなくなり、僕の実家の「深川亭」も廃業。「川奈」も廃業。「喜川」は日本橋へ移ってしまった。
 でも、店の名前は「柳ばし?喜川 日本橋店」だった。
 今年の 秋、同窓会で「川奈」の妹と何年か振りに会った。
 「かど家のセガレは店を継がず、妹に任せて、サラリーマンになったんで、海外生活が長かったけど……今は、姉さんの喜川を手伝っている。それも、今年で店を閉めるけど」というのだ。
 エッ、「鰻と言えば喜川」がなくなる?
 深川亭は、お客が「喜川の鰻を!」と言えば、出前を注文するのだが、必ず、僕もご相伴に預かった。風邪を引けば、必ず「喜川の鰻」だった。
 その「喜川のタレ」が消えてしまう?
 先週末、食べに行った。特別、美味かった。
 「川奈」の姉妹は、相変わらずの美形。「でも、歳を取っちゃったから」が廃業の理由?
 今日12月25日、「喜川」最後の日である。
 ( 東京都中央区日本橋3-7-20 DICビルB1F 東京メトロ銀座線日本橋(東京都)駅B1口 徒歩2分 03-3271-8640)

<何だか分からない今日の名文句>
鵜が飲み込むのに難儀したから鵜難儀、うなんぎ、うなぎ