長嶋さんは最後まで病室でナイターを見て「この音はホームランだ!」と叫んでいた
2025年6月3日のテレビは89歳で亡くなった「長嶋茂雄」一色だった。
亡くなった時刻は6月3日午前6時39分……全て、背番号の「3」の倍数……悲しいけど……長嶋さんらしく「劇的なフィナーレ」だった。
長嶋さんが大好きだった。
2004年、長嶋さんが脳梗塞で倒れ、新宿の「初○リハビリテーション病院」に入院した時のことである。
僕は47歳の若さで脳卒中になって「名人」と言われる療法士に助けて貰っていたが、その療法士が「長嶋担当」になった。「右半身麻痺は牧さんより軽いけど、今は歩けない。言語障害も重い」。
野球の天才が動けない。喋れない。悲しかった。
“脳卒中後遺症の先輩”として、何か、長嶋さんのために役にならないか?
で、役になるかどうか?分からないが、僕の「闘病記」を長嶋さんに届けて貰った。(『新聞記者で死にたい 障害は「個性」だ』中公新書)
読んでくれたのか?どうか分からないが、長嶋さんは約1年後、見事に「回復」した。野球場に姿を現われた長サンの笑顔をテレビで見て、ちょっぴり泣けてしまった。
長嶋さんは日本人にとって「家族同様な存在」だったのだろう。
今年、長嶋さんは港区の東京○○○医科大学附属病院に入退院していたらしい。体調不良だった。
毎晩、病室でナイターの中継を見ていた。長嶋さんは「バットとボールがぶつかった音」を聞くと、ヒットになるか?凡打になるか?がよく分かるらしい。
「音」を聞いた途端、長嶋さんは「ホームランだ!」と叫んで、看護師さんをびっくりさせた。
でも、長嶋さんの病状は重かった。
3月頃、長嶋さんが、大谷翔平の東京シリーズで「彼に会いたい!」と言った時、病院側は躊躇した。
観戦は治療にマイナス!と思った。「心臓もボロボロ。肝臓もボロボロ」と言う状態でもあった。
それでも、許した。
長嶋さんと大谷を撮影した 2ショット写真。これが歴史に残る「天才同士」の記念写真になった。
長嶋さん、ありがとう!
長嶋さんを支えた医療関係者にも、僕は「ありがとう!」と言いたい。
<何だか分からない今日の名文句>
燃えた、打った、走った!