メディアは 「人工透析と尊厳死」を真正面から取り上げる勇気があるのか?

 21日朝は筋トレ。帰りに、錦糸公園前の花屋で、小さな「ガジュマル」を900円で購入した。

 木の精が宿る「多幸の樹」。実は鉢から、はみ出した「太い幹」は「木の根」。それが、好きだ。

 朝から「今日は、イチロー引退の日」と聞かされていたので、記念に根が太い「多幸の樹」を買った。

 今週は、内田裕也の急死、イチローの引退……とビックニュースが続いたが、一番「複雑な思い」に駆られたのは「東京都・公立福生病院の事件」だった。

 この病院で、昨年、人工透析治療の中止を希望した女性患者(44)が死亡した。この患者は、透析中止に際して「意思確認書」を書いていて、夫もその意思に同意していた。

 しかし、死の前日、患者は透析再開を希望した。でも、病院に無視され、透析は再開されず亡くなった。(この事件は毎日新聞のスクープ)

 透析の中止は、即「死」を意味する。人工透析の苦痛に耐えらず、この患者は「中止」を選択した。「自覚的な最期」だった。でも、途中で「生きたい!」と思ったのだろう。

 「人工透析中止」の中止が病院に無視され、患者は亡くなった。

 メディアは門並み、病院の対応を批判している。「人工透析中止は死への誘導ではないのか」「自殺幇助に近い」「医師の判断で透析患者を殺してもいいのか」……

 この批判は当然だとは思うが……コトは、そう簡単ではない。

 この事件は「尊厳死とは何か?」を我々に問い直しているような気がする。

 欧州諸国は「尊厳死」ばかりか「安楽死」まで認めるようになっている。オランダが「安楽死先進国」になったのは、安楽死を拒否された寝たきり患者が「それなら絶食をして餓死する」と宣言。苦しみぬいて死んだことがキッカケで、安楽死が全面解禁になった。

 人には自分の人生を自分で決める権利がある。死を選ぶのも、その権利の一つ!とヨーロッパ人は考える。

 日本は違う。「安楽死」は認められていない。その結果、心も体もボロボロになるまで、辛い治療を続けろ!と、病院が(家族も)強制する。

 その反面、多くの医療関係者が「終末期医療の停止による尊厳死は認められる!」と思っている。

 今回の事件は、その狭間で起こった。人工透析の中止は「尊厳死」に当たるのか?

 はっきり言わせてもらうが、人工透析は腎移植の「つなぎ治療」である。にも関わらず、現実には(腎移植が出来ず)最終的な延命治療になっている。

 透析患者数が約32万人。諸外国に比べて圧倒的に多い原因は、腎移植がほとんど行われていないからだ。

 腎移植が出来れば患者は助かる。「安楽死」「尊厳死」云々という議論は無くなる。

 でも、現実の問題として、透析患者は増え続ける。

 実は、僕の親戚も「透析」をしている。何度か、「苦しいから、止めたい」と言われた。その度に「止めたら死ぬよ」と言っている。

 透析患者に「死ぬ権利」はあるのか?

 この事件を真正面から報道するとすれば「尊厳死・安楽死」問題から逃げられないだろう。(もちろん、透析にかかる「カネ」のことも議論になるだろう)

 福生病院の事件は「特ダネを取れば良い」という代物ではない。報道には「覚悟」がいる!

 「偽善報道」なんてイチャモンを付ける向きもあるだろう。

 後輩の記者諸君!覚悟して、そして、慎重に!

 もしかすると、この事件は「平成最期の問題提起」になるのかも知れないから。

 

<何だか分からない今日の名文句>

邦に道なければ、

行い危しくして言は孫う