今日だけは五輪より「終戦」! 我々は「権力と対峙する覚悟」を持とう!
【16日(火)、17日(水)のブログはお盆休み】

 今日15日は71年目の終戦記念日。今日の日記は、少し長くなるが、我慢して読んでくれ。

 今年はリオ五輪のニュースがいっぱいで、新聞、テレビの「終戦もの」「平和もの」が激減。極右の安倍政権には好都合らしい。日本人が「戦争」を忘れる間に、平和憲法を変えよう!と彼らは画策している。

 そんな中で、14日、見るべき、読むべき「終戦もの」を見つけたので紹介したい。

 一つはBS・TBSで午後1時から2時間に亘って放送された「8・15 玉音放送を死守せよ~異なる目的のために 命をかけた2人~」(実は11年前に放送されたものの再放送)

 71年前の1945年8月14日から15日にかけ宮城(現皇居)周辺ではクーデターが起ころうとしていた。日本の降伏を阻止しよう!と一部将校が企てた「宮城事件」。(歴史研究家・半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」にも詳しい)

 その日、内幸町の日本放送協会に二人の「立場の違う男」がいた。玉音放送を死守した男・柳澤恭雄NHK報道副部長(当時35)と、玉音放送を奪取しにいった男・小田敏生近衛連隊歩兵師団中隊長(当時26)。

 協会内にいた柳澤は、将校に銃を突きつけられたまま「日本国民に嘘をつき続けたことを悔い、死んでも終戦の玉音を放送する」ことだけを考え、外にいた小田は120人の歩兵隊を指揮し「一億総決起を信じて、玉音放送阻止を目指す」ことだけを使命と考え、銃を構えていた。

 その緊迫の1日。そして、ここに至るまでの軍部の暴走。無力の放送人。

 二人が経験した「国家が国民の思考を奪ってゆく過程」「メディアが戦争に加担していく過程」を通じて、戦争が如何にバカバカしいものであるか!を検証している。

 「軍部は国民のことなど考えたこともない」という証言に愕然とする。事実だけを報じた、素晴らしい作品だった。

 もう一つは、東京新聞の「戦争と新聞」と題する社説である。

 戦時中、新聞は、大本営発表の誤った情報を垂れ流し、真実を伝えなかった。新聞も軍部に加担した。

 そんな中で、真実を伝えようとした新聞人がいた。東京新聞の「社説」は、その一人を取り上げている。

 (1972年刊行された「中日新聞三十年史」に詳しいらしいが)東京新聞の社説をそのまま引用させてもらう。

 

 ドイツ降伏後、日本への空襲が激しさを増す中、富塚清東大教授が書いた「日本は必ず敗(ま)ける」と題する評論が配信されます。その理由を理路整然と挙げ「一刻も早く戦争を終結させ、日本と日本民族の存続を図らなければならない」との論旨です。

 紙面編集担当の三浦秀文整理部長(後の本社社長)は掲載を命じます。部員は「こんな原稿を載せたら部長は銃殺、新聞は発行停止になる」と抵抗しますが、部長は「俺が一切の責任を取る。俺が銃殺になれば済むことだ」と一喝、原稿は印刷工場に回されました。遠隔地に配達するため締め切り時間の早い「早版」が刷り上がると、査閲部長が血相を変えて「この記事は何だ!」と詰め寄り、記事の削除を命じてきます。査閲部とは、記事内容が軍部の検閲を通るかどうかを審査する部署です。しかし、三浦部長は泰然としてたばこを吹かしながら、最後にこう命じます。「この記事は(締め切り時間の遅い)後版で抜け。早版はこのまま刷って発送せよ」……

 三浦さんは度胸が座った新聞人だった。多分、他の新聞社にも、まともな「勇気ある新聞人」はいたはずだ。(事実、毎日新聞には「勇気ある先輩が何人かいた)

 東京新聞の「社説」は、以下のように結んでいる。

 「戦争という一個人ではあらがいきれない歴史の中で、命懸けの抵抗を試みた報道人がいたことも事実です。私たちにはその気概を受け継ぐ責任があります。新聞は今、緊張感を持って権力と向き合っているのか。権力とメディアとの関係が厳しく問われている今だからこそ、自問し続けなければなりません。戦争という歴史を繰り返さないために」

 まさに同感である。今、新聞は「権力の言いなりではないか? 安倍政権と、我々、新聞人はハッキリ向き合う気概を持とうじゃないか!

<何だか分からない今日の名文句>

新聞人は「戦争犠牲者の血」を忘れない