袴田事件の思い出

 1966年に静岡県で一家4人が殺害、放火された「袴田事件」。その第2次再審請求審で、静岡地裁は再審開始の可否を27日に決定する。
 「袴田事件」には、僕にとっては「決定的な思い出」なのだ。
 毎日新聞社の入社試験で採用が決まった66年の夏。日大一高の恩師から「俺の義兄が、毎日新聞の静岡支局長をしている。彼に身元引受人になってもらったら良い」と言われ、静岡支局にお邪魔した。
 佐々木武惟支局長は、後に気づくのだが「伝説の事件記者」だった。
 お会いすると「今日の一面、見たか?」というのだ。
 多分、その日は1966年8月18日。「今日、元ボクサー・袴田、逮捕」の大きな見出しが踊っていたような記憶がある。
 この年の6月30日 「有限会社王こがね味噌橋本藤作商店」専務の自宅が放火され、焼跡から専務(41歳)、妻(38歳)、次女(17歳)、長男(14歳)の計4人の他殺死体が発見された。
 一家の中では別棟に寝ていた長女が唯一生き残った。
 その事件の容疑者の逮捕を毎日新聞静岡支局がスクープしたのだ。
 記事通り、袴田容疑者は逮捕された。
 「君の二年先輩の記者が、スクープしたんだ。君も、誰にも負けない事件記者になるんだぞ」と言われた。
 「政治部記者になって、政治家の云いなりになるなよ。政治部記者が日本を悪くしている」とも聞かされた。
 この日から、入社したら「一面トップで大事件の犯人逮捕」を抜こうと思った。
 入社したら、佐々木さんのニックネームが「ゴジラ」。事件報道で負けなし。NHKドラマ「事件記者」のモデルだったと聞いた。ますます事件記者を夢見るようになった。
 新潟支局の「見習い」を済ませ、東京本社の社会部に移った頃、佐々木さんは上司の社会部長になっていた。
 一方面(丸の内警察担当)の 「サツ回り」を終えて、いよいよ事件記者の花形、警視庁担当になれると期待したが……人事は冷たかった。
 異動先は「東京東支局」。一ヶ月後には、もう一度サツ回り。それも、格下の「二方面の大崎警察署担当」だった。
 警視庁担当、しかも、殺し担当になりたかったのに。佐々木部長を恨んだ。(結局その後、5年間警視庁担当になったけど)
 ともかく、僕が事件記者志望になったキッカケは「袴田事件」だった。
 その後、袴田容疑者は「冤罪」を主張する。そのニュースを聞くたびに、お上が発表する予定の特ダネをスクープとしている「新聞報道」とは、何だろう?と考えるようになった。
 警察の言い分、容疑者の言い分をどうバランスを取るか? どこまで、事件の独自調査が出来るのか?
 未だに、結論が出ない。
 袴田巌死刑囚は78歳になった。僕が、新聞記者になる半年前に逮捕されているから、獄中生活は50年近くになる。もし、冤罪だったら?
 その人生は?
 再審開始の決め手は、現場近くの「みそ工場タンク」から発見され、確定判決が犯行着衣と認定した5点の衣類のDNA型鑑定の結果。それが、再審を開始すべき新証拠になるのか?
 再審開始が出た場合、確定死刑囚としては2005年の名張毒ぶどう酒事件以来、戦後6例目。
 色々な意味で、僕にとっては、注目される裁判だ。
 さて、この週末は……結構、難しい野暮用があって……。それでも、競馬はやめず、3日間でマイナス500円。

<何だか分からない今日の名文句>
骨折り損の草臥れ儲け