「新聞記者・山本祐司」は子供の頃から「ぼろはきてても心はにしき」だった

 毎日新聞の元同僚・高尾義彦さんから「新聞記者・山本祐司」が送られてきた。

 28日、1日掛けて「全て(565ページ)」読み終えた。

 知らないことばかりだった。

 ①我々は「山本祐司先輩」を「居眠り狂四郎」と呼んでいたが、小さい頃の渾名は「キークン」(空中金魚」だった。

 ②山本さんが毎日新聞社に入社した昭和36年頃(60年安保の頃)。一人の学生が「✖️✖️新聞、お断り。毎日新聞、入れてください」と張り紙を出した。これが大流行した。毎日新聞は当時、学生たちに圧倒的な支持を受けていた。(今吉先輩の証言)

 ③山本さんは子供の時から「名文家」だった。早稲田中学2年の作品「ぼろはきてても心はにしき」はゼニが稼げる「大人のエッセイ」のようで……感動した。

 兎も角、「新聞記者・山本祐司」は新事実満載。小説を読んでいるようだ。

 編集に当たった、高尾さんをはじめ、毎日新聞の仲間に感謝する。ありがとう。

 ✖️ ✖️ ✖️

 山本 祐司先輩は(1936年5月31日ー2017年7月22日)満州国奉天市生まれ、山口県萩市に育った。中学、高校、大学と通算10年早稲田で学んだ。

 毎日新聞入社。司法もので、特ダネを連発。社会部長を務めた50才の時、脳内出血で倒れ、右半身麻痺。それでも、復帰して「ルパン文芸」を主宰した。

 8年がかりで『最高裁物語(上)(下)』(日本評論社、1994年)を執筆。日本記者クラブ賞を受賞。 絶筆は「人間万歳」だった。

 <何だか分からない今日の名文句>

夜な夜な

新宿警察署前の「マミー」で

300曲歌うのが

昭和の事件記者だった