大震災から2年。発表ジャーナリズムの限界?

 たまたま移動中の「近郊のモール」で、3・11の「あの時間」に黙祷した。
 あの日、仕事場で原稿を書いていれば、大きな本棚の下敷きになって、もしかすると死んでいただろう。机に倒れた本棚のキズが残っている。
 隣のベッドルームに居たから難を免れた。
 恐ろしかった。一生、忘れないだろう。
 今日も、テレビは「なぜ、復興は進まないのか?」と嘆いている。
 大震災から一年の去年も、そう言った。 多分「三年の来年」も、同じようなことを言うのだろう。
 美談めいた話のあとに、決まってテレビは被災地の「無力感」を撒き散らす。
 現場へ行っていないので、何とも言えないが「テレビの限界」のようなものを感じる。
 「月刊民放3月号」が送られて来た。「大震災から2年」の特集は12ページ。少ないような気がする。
 それも「学者センセイ」の「あるべき論」で、現場の声がなかった。
 自ら「テレビの限界」を薄々、知っているのではないか?だから「大震災」に触れたくない?
 今のテレビに、何が欠けているか?と言えば、立ち入り禁止地域の情報を、テレビは(もちろん新聞、雑誌も同じだが)伝えていないからだ。情報空白地帯を(結果的に)メディアが作っている。
 あらゆる手段を駆使して「立ち入り禁止ゾーン」の真実を報道する「社会的責任」を果たしていない。それが出来ない。
 それに「専門性」に欠けている。東京電力、原子力安全・保安院の記者会見で、専門知識のない記者は、何も追求することが出来ない。
 ただ「発表もの」を伝えるのが精一杯。追及不足は否定出来ない。
 復興のテーマについても、同じことが言えるのではないのか?
 テレビに、記者に「専門性」が欠けている。だから、ただ発表ものを鵜呑みにして、記念日に「復興の遅れ」を嘆くだけで終わってしまう。
 そんな気がするのだが……現場に行っていないので、文句も言えないけど……。
 急に、暑くなったり、寒くなったり……体調に気をつけなければ……。

<何だか分からない今日の名文句>
「激震」がメディアに突きつけたもの