阪神・淡路大震災でも「センバツ」を開いた「同期生・鳥居宏司」が……

  24日朝、届いた毎日新聞社報で「1967年入社の同期生・鳥居宏司」の訃報を知った。
 
  昨年春、声がかすんで、診断したら「咽頭がん」のステージ4。娘さんの住む札幌で療養したが、昨年10月2日、還らぬ人になった。知らなかった。
 
  去年5月には、同じ同期生の岸井成格も亡くなった……寂しい。
 
  鳥居は研修中の記憶しかない。阪急百貨店の会長の倅で、おっとりしていた。(岸井も毎日新聞政治部長や衆院議員を務めた「岸井寿郎」さんの倅。「イイトコの倅」だったが、岸井は何事にも積極的だった)
 
  自己主張しない鳥居は津支局に配属された。以来、僕は東京本社、彼は大阪本社管内を異動して、一緒に仕事をすることはなかった。
 
  ただ「同期生」として「誇り」に思った出来事あった。
 
  平成7年1月17日の阪神淡路大震災。3月に予定されていたセンバツ高校野球は「中止」の可能性が取りざたされていた。
 
  震災発生から3日後の1月20日、大阪市内で開かれたセンバツ運営常任委員会で、出場校選考委員会の延期が決定されていた。
 
  ともかく、大地震で、関西地方は混乱していた。
 
  高校野球をやるべきか?中止すべきか?
 
  当時、鳥居は毎日新聞大阪本社事業本部長だった。春の甲子園は日本高野連と毎日新聞社の共催だから、鳥居は一方の責任者だった。
 
  鳥居は悩んだ。同時に、大正期から続くセンバツの歴史もかみしめた。
 
  センバツには「社会的使命」がある。
 
  当時の模様は神戸新聞に詳しい。同紙によると……鳥居は「日本高野連第4代会長・牧野直隆」さんに相談した。全国4000有余校が加盟する巨大組織を束ねている人物である。
 
  1月23日、鳥居は部下を伴い、大阪・福島のホテルを訪れた。芦屋川近くの自宅で被災した牧野さんは、そこに身を移していた。
 
  牧野さんは部屋で一人だった。「会長、震災からまともに食事されていないんじゃないですか? 夕食でもどうですか」。何げない言葉で鳥居は牧野さんを誘い出した。
 
  鳥居の部下を含めた3人で大阪・北新地に出向き、鍋をつついた。たわいない会話で場を保ちつつ、鳥居は核心に触れるタイミングを待った。
 
  牧野さんの酒がいつもより進んでいるように見えた。何度か杯を傾けるにつれ、その表情はかすかに上気し始めていた。
 
  「ところで、会長…」。鳥居が本題を切り出した。「このたびのセンバツはやれるでしょうか」
 
  一呼吸を置き、牧野さんが口を開いた。「何が正しい判断かというと大会をやることだ。開催することが毎日新聞のかい性だろうが」。
 
  温厚な牧野さんにしては珍しく、強い口調だった。
 
  センバツはこれで決まった。
 
  センバツ決行!を聞いた時、僕は「鳥居はさすがだ!」と喝采した。あの時のことを思い出した。
鳥居!ありがとう。
 
  それにしても、仲間が次々に逝ってしまう。寂しいな。
 
<何だか分からない今日の名文句>
 
思い出話は「あの世」まで