爆弾質問が華だった「楢崎弥之助の時代」

 昨日は2月29日。ことしは閏年。
 一年が366日ある年。太陽暦と地球の自転速度とのずれを修正するため、4年に1度、やって来る。
 漢字の「閏」は王が門の中に居ることを表す。中国では暦からはみ出した閏日には、王が門の中にとじこもり、政務を執らない。
 でも、アメリカと北朝鮮の「王」は、この日を「和解(と見せかける)の日」に選んだ。
 寧辺(ニョンビョン)核施設でのウラン濃縮活動や核実験、長距離弾道ミサイル発射実験を一時停止する見返りに、米国側が24万トンの栄養補助食品を提供する。
 閏年の決断?
両国の駆け引きが活発化する。何れにしても大ニュースだ。
 感慨深い「小さなニュース」も飛び込んで来た。
「国会の爆弾男」と呼ばれた元衆院議員・楢崎弥之助さんが亡くなっていた。社会部の国会記者クラブに所属していた頃、何度も取材した人である。
 楢崎さんは一人暮らし。29日午後7時50分ごろ、楢崎さん宅を訪れた孫の男性から「祖父が死んでいる」と110番通報があり、分かったらしい。91歳だった。
 新聞では、小さなニュースなので、簡単な略歴しか載っていないが、楢崎弥之助さんは波乱万丈の一生だった。
 1960年の第29回衆議院議員総選挙に福岡1区から日本社会党公認で出馬し初当選。1964年、米国のスケート級原子力潜水艦シードラゴンが長崎県の佐世保港に入港した時、反対デモの先頭に立ち、公務執行妨害罪で現行犯逮捕された。
 日本国憲法下で現行犯逮捕された現職国会議員は楢崎さんが初めてである。
 「爆弾男」は赤絨毯でイロイロなことは刺激的に演じた。記憶に残るところでは、1988年9月のリクルート未公開株譲渡問題。
 彼の追及質問に対して、手心を加えるよう議員宿舎で賄賂を贈ろうとするリクルートコスモス社員。彼は「おとり」になって日本テレビに、この模様を隠し撮りさせた。
 この場面は『NNNニュースプラス1』で放送され、彼は一躍ヒーローとなったが……「おとり」には、ちょっと嫌な感じがしたのも事実だった。
 でも「楢崎弥之助」がいるだけで、当時の国会には「緊張感」があった。国会の華だった。
 彼の目指したものは何だったのか?を 書くより、彼が永年勤続表彰を受けた時の謝辞があるので、それを読んでもらえば良いと思う。
一部をここに引用する。
 私は、九州博多の古い呉服商、老舗でございますが、「紙弥」の次男坊として生まれました。
 私の学びました中学校は、福岡県立修猷館という黒田藩につながる歴史と伝統を持った由緒ある学校でありましたが、皆さん方にとっても先輩議員であります、あの戦争中、東条軍閥に抗して自刃した中野正剛、「落日燃ゆ」の悲劇の宰相廣田弘毅、爛頭の急務と叫んで総理・総裁の座につく寸前に惜しくも倒れました当時の自由党副総裁緒方竹虎、日本社会党創設の重鎮三輪壽壯、これすべて我が修猷館の私の先輩であります。
 楢崎弥之助、とてもこれら大先輩の足元にも及ぶべくもございませんが、ただ一つ、その反骨の精神、反権力の気風だけは学び取ってきたつもりであります。そして、義理と人情に厚い九州男児の情熱と純粋さだけは失わないように自らを厳しく律してまいりました。
 昭和二十年十一月二日、あの敗戦の瓦れきの中に日比谷公会堂で産声を上げました日本社会党の結党に参加して、政治運動に身を投じて以来、今日まで四十三年。その間、昭和三十五年秋には、浅沼稲次郎社会党委員長のかばねを乗り越えて初めて本院に議席を得ましてからも二十五年がたちました。今思えば、はるばる遠くへ来たものだという感慨で胸がいっぱいであります。
 かの動乱の幕末期に、薩長土肥四藩の連合を果たし、維新の夜明けに身を投じましたあの土佐藩下級武士坂本竜馬の生きざまに、今私は限りない政治へのロマンをかき立て、この命生きる限りおのれの務めを最後まで果たす存念でございます。
 反骨、義理人情……名演説だった。
 さて、今日は3月1日。今、午前7時半すぎ、ちょっと大きい地震。もうじき、大震災から一年。もうじき、春。

<何だか分からない今日の名文句>
風誘うままに花落ち、雲流れるままに人は去る
(楢崎弥之助さんが使った一節)