編集長ヘッドライン日記 バックナンバー
2004.10月

10月28日(木) 紅葉情報

 秋天。東京の空は抜けるよう。つい、誘われて、取材を兼ねたドライブ。 夕方、首都高から見た、真ん丸の夕日に感動。明日も快晴だろう。

 水害、地震、イラク誘拐‥‥とても、こんな気持ちになれない、と言う方も多いだろうが、 秋のレジャーシーズン。問題は列島規模の経済活動の停滞。水害、地震だけで、 一兆円の経済的損失が計算できる。その上、人々が消費を手控えると、さらに不況は長引く。

 義援金ももちろんだが、普通に金を使おう。

 で、この時期は「紅葉」だ。軽井沢の白糸の滝のカエデ、もみじは見ごろだろう。 国道146号の浅間牧場は10月10日ごろ、すでに真っ盛りだったから、丁度、良いだろう。 (浅間牧場では300円の牛乳がうまい)

 中央道エリアでは、奥多摩湖、大菩薩峠、鳩ノ巣渓谷。富士五湖ではナナカマド。

 鎌倉は11月下旬だから、大分、遅い。

 雑誌の紅葉情報を見ながら、うつらうつら。

 イラクの誘拐。解決に前進なし。愛馬フェザーレイは土曜日、東京1400メートルで再起を図る。

<何だか分からない今日の名文句>

肌で感じる秋

10月27日(水) 優太ちゃんが救った「絶望」

 起きたら、邦人がイラクでザルカウィの武装組織に誘拐された、というニュース。学生さんらしい。今まででも一番、厳しい状況の中、 好奇心だけで、イラクに入ったのか。吹雪の中、わざわざ、登山して遭難、救助を求めるような愚。残念だ。

 世論が彼の味方になるだろうか。政府の解放努力が成功しなくても、国民は「やむを得ない」と感じるのではないか?

 このケースで、小泉さんが「自衛隊撤退」を決意することはまずないだろう。もし「自衛隊撤退なく、誘拐された若者が犠牲者になる」 と、これは一つの「前例」になってしまう。国民の保護という国家本来の義務と同盟国支援(もっと明確に言えば「ブッシュ支援」)とい う仕事が秤に掛けられ、同盟国優先になってしまう。「イラク人道復興」という名の派兵を国民が支持したということにならないか。

 若者は、あまりに軽率なことをしてしまった。困るのは小泉さんではなく、自衛隊派兵反対派‥‥ということにならないか。ともかく、 若者を助け出すことに全力を上げてもらいたい。

 水害といい、台風と言い、地震といい、自然の前で、人間はあまりに無力だ、と思っていたけれど、優太君、頑張ってくれた。僕だった ら、気が狂ってしまっていただろう。奇跡を越える「何か」を感じる。

 神の思し召し、なのだろうか。中越地震復興に光が見えてくるような気がする。

<何だか分からない今日の名文句>

無心の生還

10月26日(火) 小泉さんはアリバイ視察

 小泉さんが中越地震の視察。「遅すぎる!」「現地が迷惑するから来ないでくれ!」と議論はあるが、どうでも良いこと。どうせ形だけ だもん。

 「ここだけの話」では、小泉さんがしきりに言う「郵政民営化は本丸」という台詞。「これが、実はニセ本丸だ」と書いた。地震災害の 最中で、政治向きの話は歓迎されないと思ったが、反応あり。小泉さんの「中途半端」に腹を立てている人も多いのだろう。

 地震の惨状に心を痛める天皇陛下は日曜日の天皇賞観戦を延期される。「競馬会記念行事の準備に尽くしてきた関係者に心苦しいことで はあるが、せっかくの天皇賞競走に晴れやかな気持ちで臨むためにも、行幸啓を取り合えず、来年まで一年延期することは出来なか?」と 陛下はお話になった。主催者のJRAはそのご意向を了承し、陛下の天皇賞観戦は来年ということになった。

 正直言って残念だが、陛下がそう思われるほど、中越地震は深刻な惨状なのだ。

 原稿を書き終えてJRAへ。準備に万全を期したJRAの仲間に、何と言っていいか。ちょっと、気おくれしたが‥‥これは天災の余波。 仕方ない。

 むしろ積極的に「復興支援競馬開催」に知恵を出し、すこしでも、被災地のお役に立つのが、公共レジャーJRAの勤めだと思う。来年 の行幸啓で、陛下から「ありがとう」と言われるJRAであって欲しい。これは一ファンのお願い。

 当面、JRAは義援金2000万円をおくることにした、とのこと。まずは同慶。心ある企業、組織はJRAなどに続け。

 被災地は雨。11月に入れば雪が積もる。台風、地震、何となく、国難の秋の様相。

<何だか分からない今日の名文句>

アリバイ政府に重なる災難

10月25日(月) ぜひにも集団移転

 午前中、京都から名古屋へ移動。10月6日にスタートした「JRあおなみ線」を見学。名古屋駅から名古屋港の間、11駅15.2キロ を24分で結ぶ。可動式ホーム柵、ワンマン、JRでは珍しい。

 地方競馬の名古屋競馬、通称「ドンコ」も、これで名古屋駅と結ばれる。

 午後、出社。中越地震は予想以上の被害だ。山古志村は全滅? と言っても良いのだろう。

 1967年8月29日の羽越豪雨が、僕の記者として始めて大事件である。あの時、僕の記憶では、123人が亡くなった。

 みんな、何から手をつけたらいいのか。ただ、呆然としていた。その時、自民党幹事長の田中角栄は故郷の仲間に「集団移転」を訴え、 多くの人が平地に移った。太平洋側と日本海側がバランス良く、発展させるのが、彼の持論で、日本海側の安全保障に金をつけろ、と主張 して、人々は「自分の家を移転し、家を建てる公共事業」で生活を維持した。

 あの時の角さんの気迫。感動した。懐かしい。

 今回の惨状。やはり「平地に移れ!」と言った角さんの意見は正しかったように思う。山地に残っては見たものの、漫然と時間が過ぎて いる間に、過疎は進み、長岡市も、新潟も、まで昔の繁栄の面影はない。

 県内で集団移転して、核のある町を創らなければ‥‥。

 角さんは「金権」と言われ、必要以上に悪口を言われた。彼の「錦鯉伝説」は、角さんがお金持ちだからではない。地元の産業の広告塔 になっているだけなのに、人々は金権を批判した。故郷を愛した角さんを理解できない人が多すぎた。そして、角さんなきあと、新潟は‥‥

 それは、それとして、莫大な資金はいるが、もう一度、行政による「集団移転」が必要な気がしてならないのだ。

 携帯電話で、JRA関係者数人に「中越地震復興支援競馬をすべきだ」という意見を述べた。

<何だか分からない今日の名文句>

いでよ!平成の角さん

10月23日(日) 生まれて始めての名刺

 21日から23日までの京都紀行。

 21日は夕方、新幹線で京都へ。ホテルに直行。「青い雲」の原稿を書いてから先斗町。前に知人に連れてこられた「あばんざい」の店 を探し当て、一人で夕食。「時代祭りどすか?」と聞かれ、京都3大祭りの当日と初めて知った。「いや、菊花賞です」。

 この店、格子戸に入ってから、小さな箱庭があって、もう一度、ガラス戸を開くので、実に閑静。湯葉がうまかった。

 女将さんのお姉さんが隣で「お茶屋」をやっているので、花柳界情報に明るい。「先斗町の舞妓は激減している。宮川町の方が多い」と いう。その宮川町まで歩いて、以前、立ち寄った「本城」を探すが、見つからない。ホテルに帰ってまた原稿。

 翌日、宮山健太郎夫妻が加古川からやって来た。沖縄出身の旧友。40年音信不通だったが「お宅の会社にいる牧太郎は、僕の友達では ?」と彼が毎日新聞社に問い合わせて、再開を果たした。春、加古川を訪ね、奥さんにあった。利発の人だ。「以前、京都競馬場に行った ことがあるが、その時は、夏で、競馬がなかった」というので、秋競馬に招待した。一日中、夫妻と競馬。快晴の競馬日和で、二人とも緑 のターフにえらく感激。最初に、奥さんが当て、続いて彼が当て、最後のレースで、僕が当てた。

 ホテルに戻り、地下の「たん熊」で夕食。彼からプレゼントを貰った。幾分、茶色くなった「名刺」である。

 よく見ると「郵便友の会全国委員長 日本大学第一高等学校2年 牧太郎」とある。こんな名刺あったのか。当時、会員14万人の青少 年団体の全国委員長だった僕は、北海道の全国大会で沖縄県委員長の宮山健太郎と名刺を交換したらしい。

 当時、沖縄は占領下で、沖縄の高校生が本土へ来ると新聞記事になった。我々は大会後、東京で郵政大臣を表敬訪問したり、役所の人や 記者さんに多数会ったので、名刺を作った、と彼は記憶していた。「多分、なくしてしまったので、持ってきた」という。青春の一ページ。 彼が、茶色い名詞を大事に持っていたことに、感動した。

 午後9時、たまちゃんが京都着。「新潟で大地震!」だという。知らなかった。事件記者の頃は、誰にも負けず、現場一番乗りを果たし たが‥‥歳だな。携帯で情報を‥‥と思ったが、通じない。11時頃まで、ホテルの部屋で、宮山夫妻、たまちゃん、それに、おばちゃん と飲む。

 23日、朝一番でTBSラジオに電話で出演。夜中に調べた地震のことを話す。朝飯の後、仲の良い宮山夫妻は「哲学の道」を散策する というので別れる。

 京都駅近くのホテルで、着飾った? 関西在留の知人と合流して、淀へ。もう一人、知人(こちらは男性)も午後、参戦して、馬券勝負。

 たまちゃんとの「菊花賞・馬券勝負」の結果はスポニチ「おけら街道」(27日)で読んでくれ。

 終わって、知人と、伏見の居酒屋で、利き酒。ハナタレ2000円は売り切れでなかった。

<何だか分からない今日の名文句>

当たるも八卦、当たるぬも馬券

10月21日(木) 菊花賞は激戦?

 さあ、いよいよ菊花賞。今年はJRA創立50年。10年ごとの記念年は、何故か、3冠馬が出ている。10周年はシンザン、30周年 はシンボリルドルフ、40周年はナリタブライアン。20周年だけが、皐月賞・キタノカチドキ、ダービー・コーネルランサー、皐月賞・ キタノカチドキ。キタノカチドキの2冠だった。

 で、ことしは、どうだろう。皐月賞馬のダイワメジャー、ダービー馬のキングカメハメハが出走しない。激戦、混戦である。(菊花賞は 一番人気、7連敗中)

 でも、心情としては、地方ホッカイドウ競馬のコスモバルクに勝ってほしい。(スポニチ「おけら街道」では、末脚のハーツクライを有 力と見たが)ことしは北海道。高校野球で駒大苫小牧が、北海度勢初優勝。移籍一年目のパ・リーグの日本ハムもプレイオフに進出した。

 頑張れ!北海道。頑張れ!バルク。

 週末は淀だ。

<何だか分からない今日の名文句>

追加登録に意地を見た!

10月20日(水) 台風23号に泣く「べったら市」

午前中、東京専売病院。血圧130−82で順調。「台風が次々に来るから、沖縄に行けない」と言うと、大山ドクターは「11月で良い じゃないですか」と言う。大山ドクターの奥さんは大の石垣島のファン? 案内してもらいたいのだが、どうやら、11月に入ると、まっ たく暇がない。今年は諦めるか。

 帰りに東京駅の地下で約1時間、散歩。雨が降ると、散歩が出来ないから困る。運動しないと血糖値が上がる。そこで、買い物をしなく ても、地下の繁華街を歩く。

 仕事場に戻る途中、日本橋の宝田恵比寿神社の「べったら市」に出合った。晴れていれば、タクシーを降りてみたいのだが、徐々に風が 出てきたので断念。車から見る限りでは、行き交う人は殆どいない。露天商の皆さん人は、実に気の毒だ。

 「べったら市」は陰暦10月19日、江戸の大伝馬町から小伝馬町までの通りに立った浅漬け大根の市。江戸時代、浅漬けは、この日か ら売り出されるとされていた。現在は陽暦10月19、20日の両日、市が立つ。が、この季節に台風が来るなんてことは、まず無かった が‥‥今年の台風は異常だ。ひょっとすると、11月に台風が来たりするかも。歴史的には11月2日に台風が上陸したことはある。

 21日午前2時、この日記を書いている時間帯、23号は東京・八王子を通過中。不思議なことに、窓の外は雨も風もない。テレビでは、 すでに死者・行方不明が50人を超えたとアナウンス。大変な犠牲だが、それはそれとして、経済的損失は計り知れないだろう。政府はど うするのか。

 友人から贈ってきた諏訪大社のご宝物「真澄の鏡」を名前にする「あらばしり真澄」をちょっぴり、飲んで就寝。

<何だか分からない今日の名文句>

寅さん、殺すにゃ 刃物は要らぬ。秋台風が来れば良い

10月19日(水) 「サラリーマン忠臣蔵」

 また、台風が来るらしい。今のうちに歩かねば、と霧雨の中、朝の散歩。その後「おけら街道」「名馬と時代」を書く。

 幾分、風邪気味。午後、BSで森繁主演の「サラリーマン忠臣蔵」を見る。前後編あわせて約3時間。こんなに面白い作品だったか。 名作だ。多分、子供の頃、見た記憶はあるが、その時は、台詞の妙が分からなかったのだろう。多分、昭和30年代の作品だろう。当時の 東宝オールキャスト。三船敏郎、左ボクゼン?、団令子、懐かしい顔ぶれ。「あの人、死んだかなあ?」なんて思う高齢の役者さんも多い。

 そこで、週刊誌の企画「あの人、死んだのかなあ?生きているのかなあ?」なんてどうだろう。意外なところで、活躍していたりして。 「あの人は今」の究極版。取材力が必要だろうが‥‥死因を詳しく、最後の言葉を詳しく。活字文化を愛する高齢者にとって「死に際」は 最大のテーマになりつつある。

 18日夕、週刊××の記者さんが電話を掛けて「会いたい」と懇願する。まったく、僕が知るような話ではないので断った。「僕も記者。 取材されるのも良いけれど、取材する方はもっと大切なので、時間が取れない」と言ったら理解してくれた。でも、どんな狙いで取材して いるのか、ちょっと気になって、数ヶ所にあったてみた。彼らが取材していると思われることは、誰もが初耳とのこと。へェー、そんなこ とあったのか。事実とも思えないが‥‥。

 午後5時、日本橋三越の英国店。英国人の女性が轆轤を回している。緑色をベースにした食器の実演販売するシンプソンさん。53歳。 いつもはロンドンにいるらしい。日本語が上手。長いこと、京都にいたらしい。

 「これが一番、好きだな」と言うと「私も、それが一番好き」と言うので、お皿を買うことになった。11000円。たまには贅沢も良 いだろう。

 三越は新館が出来、おもちゃ売り場、書籍が移った。レジの前の週刊誌売り場。何故か、サンデー毎日が売れている。いつも、隣の週刊 朝日の方が売れているけど(失礼)多分、地村夫妻拉致事件の特ダネが話題なのだろう。表紙が良くなった。ちょと良い感じである。

<何だか分からない今日の名文句>

生きることは死ぬこと

10月18日(月) 新聞記者で死にたい

 晴天続く。未明、原稿(「ここだけの話」は小学校の同窓会で、48年ぶりに初めて知った真実?)を書いたので、9時から11時まで 熟睡。12時、故障したパソコンを修理に持っていってもらう。同時に、光ファイバーに変えてもらうことにする。災い転じて福にする。

 出社。野暮用3件。人事部で60歳を迎えたことで起こる事務的な手続きをする。今後も、専門編集委員として、続けて毎日新聞に勤務 する。「社員」の身分も変わらない。幸せなことだ。

 本来なら定年で仕事を変えるか、嘱託で残るか、あるいは関連会社の役員として難しい経営問題で苦労しなければならないのに。今まで 通りに記者職を続けられるのは、幸せ過ぎる。同人に深く、感謝しなければならない。ありがとう。

 以前「大学へ来ないか?」と誘ってくれた知人も「君の本の題名のように『新聞記者で死にたい』が現実になるな」と喜んでくれた。

 13年前、脳卒中で倒れた時、言語療法士の女性から「失語症は治らない。記者は無理」と言われ、落ち込み「絶対、治る! 治って見せ る。治らなかったら、このまま新聞記者として死のう」を思った。そんな気持ちで「新聞記者で死にたい」を書いた。失語症は厳密に言え ば治ってはいないが、現実には、コミュニケーションは十分すぎるほど取れるし、健常人と比べても、原稿量だけは、同僚の誰にも負けな いと思う。この日記を書くことも、失語症のリハビリと思って書き続けた。

 何時、死ぬか、分からないが、でも、その時まで「新聞記者」でいたい。

<何だか分からない今日の名文句>

「治る!」と思えば治る

10月17日(日) 感動!やっと個性的な馬が

 15日、市川の銀行で野暮用。テレビで紹介された「野球のボールのような餃子」の店を探して食する。一人前に6個のボール? 凄い ボリューム。おいしかったが、胃の中は‥‥。

 夕方、パソコンの調子が悪いので、同じビルの住民に見てもらう。「重症ですね」と言う事で、治るまで、一週間は掛かる。ショック。

 16日午後、浅草ビューホテルの28階で育英小学校の同窓会。約50人が集まった。事件記者、政治記者時代は忙しくて欠席。脳卒中 で倒れてからは、身体が不自由を理由に欠席していた。一度、15年前に5、6年の担当、中田妙子先生を囲んで、数人で伊豆の熱川で一 泊旅行をしたが、それ以外、ほとんど音信もなく、48年ぶりに会う同窓生が大部分。

 小学校は1年から3年まで久松小学校で、3年3学期で育英に転校。すぐ、養護学園「久留米学園」に転校、健康状態が回復したので、 また育英に戻った経緯がある。

 それに、ほとんどの同級生が地元の台東区立福井中学に進んだのに、僕は両国の日大一中に進んだので、仲間の記憶から、忘れ去れてい ると思い、何となく不安だった。

 ほとんどの人が覚えていてくれたのは意外だった。そればかりか、在学中は口をきいたこともなかったサンペイ先生(字が思い出せない) が「毎週、TBSのラジオを聴いている」と言ってくれた。3、4年担当の和田愛子先生は「牧君は休みが続いて勉強が遅れてしまったの で、放課後、家に行って、補講した」と思い出話をしてくれた。近くの高田武彦クンが夕方、ノートを持ってきてくれ、小川静子君が給食 のパンを届けてくれた、という。和田先生の補講ははっきり記憶にある。先生は大学を出て、初めて赴任した学校、初めてのクラス、一人 だけ勉強が遅れてしまっている僕を何とかしようと、一生懸命だった。ありがとうございました。

 隣に座っていた福井道代さんは、学業優秀で、女性軍のリーダーだったが、家庭裁判所の調査官になっていた。その次に隣に座った田辺 さんは欠席。残念だった。優しい子で好きだった。

 中田先生は二次会で4曲歌った。石川先生は猛烈に酔っ払った。子安先生はなくなっていた。可愛がってくれた家庭科の鈴木トリ先生も 他界されていた。(成績の極めて悪い僕だが、算数と家庭科だけが「5」だった)

 三次会まで、付き合った。楽しかった。幹事の武ちゃん、坂倉君、林君、戸谷君、荒井君、小原千鶴さん、カメラを担当した春宮君、ご 苦労さまでした。それに「ふたりの大阪」をデュエットしてくれた黒ちゃん、ありがとう。覚えてくれた皆さん、ありがとう。

 17日の秋華賞。スイープトウショウの直線一気。感動した。馬券は外れたが、この感動は忘れない。個性的な馬が久々に現れた。 万歳!万歳!

<何だか分からない今日の名文句>

春はうららかに 秋は清く
サクラも咲くよ 菊もかおるよ(育英校歌)

10月14日(木) 「金も体も差し出せ!」

 蔵前デニーズで、朝飯を食べながら「週刊新潮」を読んでいて、思わず箸を落とした。 「金も体も差し出せ!」という見出し。民主党ハレンチ議員が参院選の女性候補に 「金も体も差し出せ!」と言ったというのだ。

 脅された女性が告発文書を提出して分かったが、日本の政界も暴力団と変わらない。

 しかも、国会の代表質問のタイミングに合わせたように、恥ずかしいスクープが出る。 民主党もこれでは、質問の切っ先も鈍るというものだ。

 その国会で、民主党・岡田代表の質問に答えて、小泉さんは「イラク戦争開戦支持は誤りではない」 と涼しい顔。米調査団最終報告がイラクの大量破壊兵器保有を否定して、国際的に 「開戦の大義」が薄らいでいるのに「平和的回復の機会を生かそうとしなかった イラクが悪い」の一点張り。

 どんな場合でも、開戦は「最悪の外交」である。そんなことが、小泉さんには分からない。 アメリカ、イギリスの独断開戦で、何千人が死んだのか。そして、アメリカが勝利したはずが、 テロ集団がイラクに入り込み、治安状態は悪くなるばかりだ。

 小泉流の言い訳が通る日本は危うい。だと言うのに、野党第一党の体たらく。 12日夜の会合で同席した某有力国会議員は「野党が弱くなって、自民党も弱くなった。 マスコミはもっと弱くなった。僕を追いかけて来た記者が、ホテルの前から、ライバル新聞の記者に携帯で、 僕の居場所を教えるんだ。安全保障なのだろう。だから、政治面に特ダネがない」。耳が痛いが、 永田町は皆、アマチュア?

 午前中に「名馬と時代」を書いて出社。野暮用4件、こなす。

<何だか分からない今日の名文句>

永田町は二軍戦

10月13日(水) 上坂冬子先生

 未明から原稿書き、午前中、一時間ほど眠って、また書く(打つ)。夕方、TBSで野暮用。その後、JRA六本木事務所。

 夜、西新橋の家庭料理「はなわ」で知人たちと夕食。作家の上坂冬子さんを紹介される。実は、彼女の作品、ほとんどと言って良いほど、 読んでいない。申し訳なく、名刺交換の際「先生のご本を読んでいません」と白状した。「良いのよ、良いの。でも、サンデー毎日に連載 したのは読んでいるでしょう」と質され「ハイ、それは‥‥」と曖昧に答えた。その「生体解剖」は読んだことはあるが、内容がうろ覚え で、何か聞かれると、自信がない。彼女の作品では、OLではなく、サラリーガールが登場して、ウップンを晴らすような作品「何とかし なきゃ」が大変面白く、記憶に残っているのだが‥‥。

 「四方さん、前のところにいるの?」と聞かれた。四方さんは、僕のより何代か前のサンデーの編集長。上坂さんが文藝春秋に載せるた め用意した原稿が、事情があって連載が先延ばしになった時のこと。たまたま、遊びに来た毎日新聞の川合多喜夫記者に事情を話すと、そ の翌日、四方編集長が現れ、ロクに原稿も読まず、原稿を両手で重みを測り、この位あれば良いなと言って持っていた。「本当にアバウト な人なんだから」

 翌週から「公判記録を基に、いま明かされる 生体解剖の真実!」が始まった。大変な反響。「生体解剖」は小社より出版されベストセ ラーになった。

 四方さんの住所を調べて、教えることにする。と、言うのも、上坂さんの最近の話題作「私の人生 私の昭和史」に四方さんが登場する。 「是非、読んで貰いたいから」。

 そんなやり取りで、十年来の知り合いのようになって、大先生の前にいる緊張が解けた。たまたま、上坂さんの知り合いの参院議員氏が 店に顔を出し、合流。約3時間半。楽しかった。

 関西から上京の知人には「菊花賞で会いましょう」と約束する。

 深夜、原稿。上坂さんから頂いたチョコレート、「はなわ」の女将にもらった、特大の栗をつまみながら、パソコンを打ちまくる。 順調。

<何だか分からない今日の名文句>

女の目だからこそ「歴史」

10月12日(火) 秋の長雨‥‥

 どんよりと厚い雲がちょっと晴れた隙間を歩く。たいとう診療所へ2.1キロ。しばらく歩いていないので、脚が重い。凄く疲れる。

 帰りば、また雨。夕方、親しい論説委員の相談事を済まして、永田町で会食。

 原稿が溜まっているので、深夜、執筆。日記を書く暇なし。

<何だか分からない今日の名文句>

雨、雨、降れ降れ、もっと降れ!(週刊誌の自棄ぱち)

10月11日(月) 花田紀凱さんの意気込み

 どうも台風一過と行かない。どんよりと厚い雲。今週の「ここだけの話」は、秋の長雨に週刊誌編集長は苦しむ、といった楽屋話を書い た。ついでに、サンデー毎日でコラムを始めたこともPR。自分が関係する雑誌が売れないと滅入るものだ。早く、晴れればいいのだが。

 サンデーの編集長の頃、雑誌「噂の真相」に“敏腕編集長のライバル?”のように取り上げられた(と言っても、相手が一枚も二枚も上 の)週刊文春の元編集長の花田紀凱さん。今度は「宣伝会議」の編集長を止め、新しい雑誌を創るらしい。「宣伝会議」の部数が思ったほ ど売れなかったこと、オーナーとソリが悪かったこと‥‥などなど、降板の理由は幾つかあるようだが、60歳を超えて、新しい雑誌を作 るなんて‥‥凄ェな。11月に「ウィル」という大人の雑誌を作るらしい。

 若者を対象にした実用雑誌ではなく、活字大好きな50代、60代をターゲット。どうだろうか。売れるのかしら。

 でも、いずれにしても、膨大な花田人脈があるから挑戦できる芸当だろう。その意気込み、うれしいじゃないか。60歳になった途端に 「60歳代の活躍」が気になる。

 旅先で、スポーツ新聞を読んでいて「これは間違いない!」というカンが働いた。競馬ではない。競輪の共同通信社杯の決勝。吉田ー山 田(中部ライン)と村上がやり合えば、当然、福島の岡部ー佐藤が断然有利だ。新聞を見ると、人気は山田と村上に二分されている。これ はチャンスだ! 友人に「近くに競輪場(場外馬券売り場」)はないか?」と叫び、必死に車を走らせるが、タイムアウト。テレビで観戦 すると、思ったように「佐藤ー岡部」で決まる。ああ、運がない。

<何だか分からない今日の名文句>

「過去の実績」で雑誌は売れる(のか)

10月10日(日) 60になった

 金曜(8日)は午後6時ぴったり、気分的には「兄貴分」のような人がやって来た。お燗が良いというので「雪中梅」。これまで、二人っきりで飲むことはなかったが、話 せば話すほど気が合う。4歳年上。東大卒。高級官僚。あまり、僕には縁の薄い人種のように思うのだが、不思議だ。

 「小泉内閣は戦後一番危うい内閣」という認識でも一致している。僕らだけではないのだろう。国民の大半が不安で不安で仕方ないのだが、この不安が「小泉打倒」に繋が らない。これも不思議と言えば不思議。政局は安定している。不思議だ。

 気が付けば午前2時。まるで十代の昔のような議論。楽しかった。

 9日(土曜)、台風22号がやって来た。午前中は雨の中、散歩したが、午後は怖くて、引き篭もる。みのさんの文化放送の番組に電話で出演。小泉内閣の新しい顔ぶりに ついて聞かれ「後継者潰しの組閣」と答えた。「中二階」というネーミングで後継者グループを皮肉って、あえて「軽量、言いなり内閣」を作る。後継者を作らない「後は野 となれ山となれ内閣」。

 台風がいなくなった10日、60歳を迎えた。ああ、そんな歳になったのか。

 旅先のホテルで珍しく白ワインを飲みながら、60年を振り替える。だれかれ、と言わず迷惑ばかり掛けた60年。ちょっと恥ずかしい。

 セガレから、お祝いの電話。9日に誕生会を企画してくれたが、台風で中止。「また、日を改めてやるから」とのこと。倅たちが元気でいるのが、最大のバースデープレゼ ントだ。

 メールの誕生日のお祝い、花束をもらったりして‥‥最後はたまちゃんの「酔っ払い電話」で、還暦の日は終わる。

 そうそう、毎日王冠には、結局、行けず、戦果は‥‥スポニチで本命に予想したローエングリンが二着。馬券は、例の3歳シェルゲームから買って玉砕。60歳初の馬券は マイナス1万円。

<何だか分からない今日の名文句>

馬齢

10月7日(木) 毎日王冠は?

 未明から昼まで「世界週報」「ここだけの話」を書く。かなり辛い日程。

 新潟県新発田市の毎日新聞販売店店主から新米が届いた。競馬仲間。「今度、府中に行くから」とのこと。

 ああ、俺も競馬場に行きたいな。10月10日は毎日王冠。わが社のものだから、是非、行きたいが、原稿が詰まっているし、野暮用も ある。北村社長は「社長職」になってから競馬場にいけなくなったそうだから、それを考えれば、文句も言えない。当方、ニケ月に一度は 行っているのだから。(たまちゃんは「仕事」と称して、いつも競馬場にいるけど)でも、毎日王冠、行きたい。

 石井副社長は必ず、毎日王冠の時は顔を出す。律儀な人だ。と、言うより、彼も競馬大好き人間なのだろう。ああ、行きたい。

 馬券下手糞の僕だが、毎日王冠は、わりとゲンの良いレース。そこで予想。

 ローエングリンで行こうと思った。(理由@多分、泥んこ馬場になるA父・シングスピールは90年代最強の馬、母・カーリングは仏オ ークス馬。素材は超一級。この辺で、一皮むけてもらわなければ)

 でも、人気になりそうだ。しかも横典。東京1800メートルの勝率2.4%。どうも信頼できない。

 北村のシェルゲームを買うか。奴を3連複の軸にする。青葉賞3着が光る。重も良い。3歳は強いハズ。北村は東京1800は多分勝率 5%ぐらい‥‥ああ、府中に行きたい。 午後、気分転換で日本橋三越へ。セガレにシャツをプレゼントしようと思い、探していたら、見 知らぬ女性に声を掛けられた。「牧さんですね。連載が始まりましたね。写真を見て、すぐ分かりました」

 びっくりした。この女性、三越の従業員。時々、当方を見ていたらしく(良い男だから? まさか、「万引き」を疑って? まさか)サ ンデー毎日の小さな写真を見て、当方の身分が分かったということ。驚いた。

 あまり、ひどい姿ではまずいなぁ、と思ったので、午後7時過ぎ、六本木ヒルズでGパンを2本買った。

<何だか分からない今日の名文句>

壁に耳あり、障子に目あり

10月6日(水) 合羽川太郎

 三日ぶりの青空。ウキウキして合羽橋まで歩く。約2キロ。

 第21回かっぱ橋道具まつりが開かれていた。

 今から約200年前、この地で財をなした合羽屋喜八、通称・合羽川太郎なる人物がいた。 このあたりは治水対策がまったくなく、毎年、人々を苦しめていた。そこで、 川太郎は私財をなげうって、掘割りを作ろうとするのだが、台風などでなかなか工事が進まない。 悪戦苦闘。これを見たい隅田川の河童どもが、川太郎の義に感じ、深夜、 河童たちだけで工事をした。そして掘割りが創られ、一帯は商業地として栄える。

 この言い伝え、ボランティア精神の昂揚。男気の街だ。

 帰りはワンコインバスの「南めぐりん」。身障者は50円だったが、 10月から100円。それでも安い。

 午後、社で取材。床屋へ行ってからJRA六本木事務所。 10月の異動で変わった人に挨拶。夜、JRAの50周年で感謝状が贈られた井崎さん、 鈴木淑子さんのお祝い会。

 たまちゃんら6人。大川慶次郎さんの思い出はなしに始まって、 実に楽しかったのだが、原稿があり早退。

 夜、震度4.びっくりした。たまちゃんの話では、カリフォルニア大に マグニチュード5以上の地震16回中15回予測した教授がいるという。 13,4日、京都大、東京大で成果発表があるらしい。

<何だか分からない今日の名文句>

タダで動くのは河童の義侠心、それに地震

10月5日(火) 芸能レポーターNさんの嘆き

 東京は猛烈な雨。このところ「雨」のことはそれほど、気にしなかったが、サンデー毎日にコラムを書くことになったので、急に気にな った。雨が降れば、週刊誌は売れない。片手を傘が独占するからだ。サンデーにとって月、火、水の発売3日目までの天気はかなり重要だ。

 雨にも負けず、午前中、新名所・丸の内オアゾを見学。この雨では「おのぼりさん」が少ない、と思ったが、そうでもない。昼飯時間、 食い物屋に列が出来る。総じて、値段が高い。丸ビルのケースと同じようなもので、オープン景気がなくなると、お客さんは逃げるような 気がする。

 午後、仕事場で野暮用1件。

 夜、赤坂プリンスで「広瀬隆一さんの卒業をサカナにする会」。「ここだけの話」で書かせて貰ったTBS番宣一筋の「引退の広瀬」さ んの退職パーティ。「人は 悩み、苦しんだ分だけ、人に優しく出来る」が彼の人生訓。だから友達が「宝」になる。200人ぐらいの仲 間が集まった。

 テレビ関係者が多いので、知り合いが少なかったが、それでも、何人かと談笑。発起人のみのさんは相変わらず元気。「昭和41年TB Sを受けて、何故か、久米宏が合格して、みのもんたが落ちた。そのTBSで『動物奇想天外』という番組を13年も続けてこられたのは、 広瀬さんのお陰」と笑わせながら挨拶。

 久ぶりに会ったスポニチの大先輩のKさんは「ドラマに出ることになった。俳優だよ」。特ダネ記者が経営陣に加わり、歌の世界のドン になり、退職したら、もの書き、テレビの司会‥‥その上、俳優になったなんて、びっくりした。スポニチさん、これはニュースですよ。

 芸能レポーターのNさんに会ったのは7、8年ぶり。Nさん、最近のテレビの自己規制を嘆く。担当者がトラブルを恐れ、企画段階で特 ダネが「やめよう!」となる。

 仕方がないからスポーツ紙で書くと、その記事をテレビが紹介するケースもあるとか。テレビの世界も、官僚的になっているのか。それ とも、跡に続くものの気概に問題があるのか。

<何だか分からない今日の名文句>

自己規制は「堕落」の始まり

10月4日(月) 僕の共生主義とは

 二日続いて雨。涼しくなった。未明から原稿を書いていたので午睡。雨の中「近くに来たので」という、例の愉快な御仁の来訪で起こ された。掲示板の常連だった、あの御仁だ。

 何ということもない世間話だが、彼の周辺で起こっている出来事が実に面白い。「××哲さんのホームページは音声入りだ。テレビの ようだ」と教えてくれるし「×偵業界の裏話」などは小説になりそうな話ばかりだ。

 サンデー毎日で始めたコラム「青い空 白い雲」についても、話が出て「どうして、青い雲‥‥なのか」という話題になった。「僕は 今、日本に、世界に、地球に求められているのは青い空 白い雲、だと思うんだ」と話した。

 僕の「青い雲・共生論」について、少し書いてみたい。「共生(共棲)」はともにところを同じくして生活することである。異種の生 物が行動的な、生理的な結びつきを持ち、一箇所に生活している状態である。

 共生には、よく例に挙げられるのだが、ヤドカリとイソギンチャクのように相互に利益がある共生(共利共生)と一方しか利益を持た ない共生(片利共生)がある。これも当然だが、僕は「片利共生」を「共利共生」に出来る限り近づけるのが、いま、人類に課せられた 急務と思っている。

 資本主義も、社会主義も、共産主義も、それなりの時代背景を持つ、意味のあるイデオロギーだが、これは「誰が分配を得るか」の思想 である。資本家が分配を受けるのか、王族が受けるのか、労働者が受けるのか。私有財産を認めるのか、否か、の思想である。

 20世紀は成長の時代だった。富の分捕り合戦で戦った時代だった。そのためにイデオロギーが必要だった。イデオロギーが理論的な ら、奪っても良い、という思想だった。

 しかし、その成長の分捕り合戦で何が生まれたのか。拡大する貧富の差、そこから起こるテロ。地球環境の破壊。テロは憎むべきこと ではあるが、この分配の差がなくならなければ、報復の連鎖は終わらない。世界からテロがなくなる、なんて誰も信じていないだろう。

 日本がアメリカに協力するからテロがなくなる、と小泉さんは信じているのだろうか。テロとの戦いで、アメリカ帝国は勝利するなん て、ブッシュさんだって信じていないだろう。偽りの戦争だ。

 今、地球に求められているのは、分捕りの思想ではなく、共生の思想だ。分捕りの思想、資本主義にも、社会主義にも限界がある。成 長に必要な自然が破壊され、エネルギー戦争は悲惨な結末を迎えるかも知れない。これを乗り越えて行くための「共生主義」だ。(「共 生主義」という言葉があるかどうか、知らない。でも「共生主義」だ)

 世界は「共生の大原則」を作り、ともに生きる。宗教の「共生」、自然の「共生」民族の独立という「共生」‥‥家庭でも、職場でも 「共生」の知恵を出そう。勝ち組、負け組、思想に反対する。

 その「共生」が出来なければ、地球は滅びる。地球環境は悪化の一途だ。

 「共生」が出来てこそ「青い空」だ。今、世界は「黒い雲」に覆われ、身動きできない。日本は一国平和主義を貫き、時代にあった、 専守防衛力を持ち、欲張らない経済力を維持すれば良い。日本人は、すでに飽食だ。貧しい人に、食べてもらおうじゃないか。

 そんな気持ちで「青い空 白い雲」とタイトルをつけた。第1回は木枯らし紋次郎・中村敦夫さんのことを書いた。

 愉快な御仁が、帰った頃、雨がおさまったので、日本橋界隈を歩く。11日に日本橋三越の新館がオープンするので、何処となく活気 がある。8時まで徘徊? それなりの取材になった。

 某氏から名物「穴子」、某氏からスペインのワインの贈り物。もらい物の多い日。9時ごろ、また、雨が降ってきた。

<何だか分からない今日の名文句>

「テロの雲」は晴れることなし

10月3日(日) 「青い空 白い雲」

 僕の新しいコラム「青い空 白い雲」が、今週5日発売(キオスクなどでは4日発売)の サンデー毎日に連載されることになった。古巣のサンデーで仕事が出来る。幸甚である。

 サンデー毎日の編集長だった1991年12月4日、脳卒中で倒れ、サンデーの仲間に多大な迷惑をかけた。 当時、実売部数25〜26万部で、必ずしも経営的に楽だったわけではないが、週刊誌不況の中で、 サンデーは何故か部数を増やしていた。もちろん黒字。契約記者を増やし、大阪に 「サンデー関西支局」を開設した。多分、週刊誌で支局を作ったのは、サンデーだけだろう。

 週刊誌としての影響力は、文春、新潮と甲乙つけ難いものだった、と自負している。 オウム追及キャンペーンももちろんだが、かなり刺激的な特集が増え「タブーに挑戦!」 の謳い文句は現実のものになりつつあった。

 「銀行員の給料は高すぎる!」キャンペーンは共感を得た。毎日新聞のメインバンクである銀行の 「あまりに高い給料」を指弾した時は、銀行の幹部から「あんた、出世するつもりはないの?」とからかわれた。

 冗談じゃない。毎日新聞は、そんな柔な企業ではない。「正しいことを書いて、もちろん、 出世しますよ」と言い放った。銀行の給料は10年以上たって世間並みになった、と、 その時の幹部氏は言うが、当時、サンデーが指摘した「銀行の驕り」が業界の致命傷になったような気もする。

 そんな「タブーへの挑戦!」を睡眠時間3時間半でこなしているうちに病魔は近づいていた。 寒い日、雪の東北の講演旅行から帰って、そのまま出社。夕方、主催する出版記念会で挨拶して、 帰ろうとした。九州から友達が上京している。河豚で深夜まで飲む予定。翌朝はテレビ番組が控えていた。 コメンテーターをやっていた。帰ろう、とした時、病魔が来た。

 9ヶ月の入院。一級障害者になった。「出世」どころではない。オウムからは天罰が下った、 と言われた。もちろん編集長解任。皆の足手まといなった。連載漫画の原作を書いたりして裏方に回ったが、 僕が編集部にいることが、新しい編集長に取って、うっとうしい存在になる‥‥と思い、当時、 社会部長だったN君(現常務)に「社会部で取ってくれないか」と陳情して新聞に戻った。

 だから、僕は「本籍・社会部、留学・政治部、別宅・サンデー」なのだ。

 そのサンデーから「2ページのコラムを書いて欲しい」と言われた。うれしかった。 僕は記者人生を「20代はハンター、30代はライター、40代はエディター、 50代は新聞社の経営に参加して、それが終われば、おつりは雑文の日々」と考えていた。 丈夫な時は「社長を終えたら、サンデーにコラムを書かせてくれ」と冗談を言っていた。 当時44歳で「部長職」になった僕は「出世頭」と言われていて「社長になってもおかしくない」と お世辞を言われていた。が、経営の苦労をすることなく、週刊誌に自分のページが持てるなんて、俺は幸せものだ。

 倒れてからの半身不随人生。一時は「夢」が霧散した。サンデーの35万部突破は「夢」と消えた。 週刊朝日より部数が少ないなんて、冗談じゃない、と言っていたのに‥‥「夢」と消えた。

 しかし、一ライターとして、サンデーの「夢」に再び参加できるのだ。幸せである。

 ともかく、失語症はほぼ克服した。事実、書きまくっている。毎日本紙に「ここだけの話」 「競馬はロマン」スポニチに「おけら街道」世界週報が月一.そして個人WEB。日曜日朝の短い短いTBSラジオの 「牧太郎のザ・コラム」も5年続いている。

 そして、サンデーから注文が来た。うれしいじゃないか。

 何とか、サンデーの名物コラムになって、迷惑をかけた仲間に恩返したい。そんな気分だ。

 タイトルは「青い空 白い雲」とした。俺が「一番好きなもの」をタイトルにした。週刊誌的でないけれど、 今の日本に、世界に、地球に、一番求められるものは「青い空 白い雲」ではないか。

 この日記を読んでくれた皆さん、サンデー毎日をご購読ください。サンデーはWEBでは読めません。 有料のコラムです。自信を持った有料メディアです。是非とも、ご購読を。隅から隅まで‥‥オン願〜いたてまつる。

<何だか分からない今日の名文句>

青い空、白い雲 タロウの共生主義

9月30日(木) 政治部旧友会

 未明まで、原稿を書いていたので眠い。スポーツ新聞の一面に、ミスタープロ野球の長嶋さんと読売のドン・渡辺恒雄さんが談笑してい る写真が出た。長島さんの目に力がある。驚いた。脳卒中の先輩? である僕から見れば「この目の力」は凄い。発病半年のこの時期では、 まだ「虚ろな目」のはずだが。さすがに、長嶋さんは並みの人ではない。

 でも、なんで、この日、ミスター、読売新聞社訪問なのか? 知人の説によれば、この日、雨が降らなかったら、中日優勝がスポーツ新 聞の一面を飾る予定だった。そこで対抗上、「長嶋一色の1面」を創った‥‥というのだが、どうかなぁ。

 昼、八重洲口の床屋で、散髪しているうちに熟睡。目が覚めてから、虎ノ門の日本財団へ。いつもの曽野綾子会長の会見の他に、今回は 「イラクからお客さん」の記者懇談会もあるというので万難を排した。幾分なりとも、イラクの雰囲気を聞きたい。

 お客さんは8人。うち男性2人はお医者さんで、言わば「付き添い」。学校の先生を主体にした女性グループ6人である。

 バグダッド大学社会学部教授のファンズィーアさんがリーダー格。よく話す。彼女のメッセージは@イラクは豊かな、学術的にもレベル の高い国だったが、イラン・イラク戦争以降、解放戦争にいたるまでに、戦争で国土が破壊された。若者は夢をなくした。A現在も、イラ クやイスラムの名をかたったテロ集団の被害にあっているBその原因は国境が開かれたままで、テロの進入が可能なことにある。旧政権の 親衛隊、旧政権がその末期に解放した犯罪人などが、外部からのテロ集団と結びついているのだC中央政権がないことも混迷の原因である。 1月の選挙が可能になり、新憲法が出来れば落ち着くだろうDこの状態の中で、日本の自衛隊は博愛の精神で努力している。感謝している。 自衛隊は戦う部隊ではなくて、平和の部隊だ。サマーワで、人々はオランダ軍と自衛隊を選別しているーーなどと話した。どこまで、正確 な報告なのか、分からないが、自衛隊に期待していることは事実だろう。

 明日(10月1日)午前、彼女たちは小泉さんを表敬する予定だそうだ。

 夜、アラスカで政治部旧友会。8年半、政治部に籍を置いたので、一応、僕も旧友ということになる。大先輩ばかりで、気が引ける。

 まず、北村新社長の挨拶。(北村さんは政治部には一年ぐらいいただけで外信部に移ったが、社内的には「本籍は政治部」と見られてい るらしい。政治部は編集局の柱の一つ。歴代社長は政治部出身者が多い、と思う。僕は、もちろん「本籍は社会部」)

 新社長は経営的な話を幾つか。景気が上向いているのか、わが社の経営もかなり順調なようだ。同慶。

 続いて斉藤会長挨拶。社長を6年務めた斉藤さんはもちろん、政治部出身。6年間の間に新聞協会賞を4回も取った強運の社長。続いて、 その前の社長・小池さんの挨拶。小池さんも政治部出身。今は、パ・リーグ会長。求めれれて、一連の騒動を話されたが、肝心なことは、 まったく話さなかった。

 山田政治部長が「昭和28年8月の職員録、昭和37年2月の職員録が発見された」と披露した。28年のものに「安倍晋太郎」という 新人記者の名前があった。外務大臣を務めた人物。安部晋三のオヤジである。

 その山田部長は10月から編集局次長。後任は倉重。僕が首相官邸キャップをしていた時の首相番記者。おめでとう。もう一人の番記者 ・小菅洋一は静岡支局長。みんな、出世した。

<何だか分からない今日の名文句>

政治部は氏+育ち