編集長ヘッドライン日記 バックナンバー
2004.3月

3月30日(火) 景気回復は本当か?

 週初め、サンデー毎日とエコノミストが送られて来る。言いたかないが、サンデーに読むべきものはない。 後輩諸君! これが320円払って読むに値する雑誌か! 僕も、ロクでもない誌面を作ったこともあるので、偉そうな ことは言えないが、これでは読者の支持は得られない。

 東大ものがあれば売れる、とでも思っているのか。もし「田中真紀子VS文春」騒動の余波で、自己規制しているとしたら ‥‥トップ屋稼業を辞めちゃえ!

 そこで、今週はエコノミストを熟読した。「デフレからインフレ」の特集。勉強しなければならないが、全体から流れ出る のは「景気回復」の兆し。本当なのか。心配になる。竹中さんは上機嫌だそうだが、冷静に考えると、とても景気回復とは 言いかねる。確かに2003年10月〜12月、GDPは前期1.6%増だった。が、金融機関の脆弱性は相変わらずだろう。 まだ、不良債権の処理に少なくても10兆円は必要だ。大手の破綻が食い止めたとしても、05年4月のペイオフ全面解禁に なれば、地域金融機関は結果として淘汰される。破綻が相次ぐと、景気は腰折れになるのは当然だ。

 それをクリアーして、07年ごろにゼロ金利を解除するというシナリオは、金利上昇、財政危機がやって来て、身動きが 取れなくなるだろう。

 ペイオフ全面実施を見極めないと、軽々しく「景気回復」なんて言えない。参院選を意識した「景気回復ムード作り」では ないのか。竹中さんは選挙が終われば、お役御免で、アメリカで研究者になるんだろう。後は野となれ山となれ、ではないのか。

 見せ掛けの「景気回復」の陰で、日本のラテンアメリカ化が進んでいなければいいのだが。

 出社すると、レターケースに一枚の葉書が入っていた。あて先は「サンデー毎日編集部」とある。

 「私は兵庫県加古川市在住で、沖縄県出身の宮山健太郎(60)と申しますが、実は若い頃に人生の指標をご教示頂きました 牧太郎氏が以前、御社の編集長をされていたと聞くに及び、生涯の内に是非お会いして御礼を申したい‥‥」

 びっくりした。探していた宮山健太郎君が居たのだ。高校2年生の頃、郵便友の会の全国委員長をしていた。その全国大会が 札幌で行われ、沖縄から宮山健太郎沖縄委員長がやって来た。まだ、沖縄復帰前のことである。友達になった。彼は高校3年生だったが、 年の差なんて関係なかった。

 僕は大学生になって、南西諸国のパスポートで沖縄に旅行した。アメリカの北(ベトナム)爆の日だった。

 宮山君の家を訪問した。バラックだった。沖縄は貧乏だった。彼は社会人になっていた。社会のことを教えてくれたのは彼の方だった。 その後、何故か、音信普通だった。その宮山君から40年ぶりの便り。感涙した。

 葉書は「人違いだったら非礼、この上なく」と書いてある。急いで電話番号を探し、連絡した。彼の声に若干の面影があった。 元気だった。「牧君も、元気?」と聞かれた。

 もちろん、彼は僕が脳卒中で倒れたことなんか、知る由もない。「まあ、元気」と答えた。

 彼、あの後、本土にやって来たらしい。つもり話は幾つも。早い再会を約束した。

 夜、JRAの“データ王”が人事異動で東京に戻ったので、たまちゃんと、プレスセンターでささやかな歓迎会。競馬が大好きな彼、 倅に「ナオキ」と命名した。ナオキは直線一気の名馬だった。倅に名馬の名前をつける。いい話だ。桜花賞は激戦になる、 と盛り上がり、たまちゃんと“データ王”は「久原」へ二次会。こちらは仕事場に戻って一仕事。この春も、金沢の広岩が清酒 「太郎」を送ってくれたので、2杯飲んで寝る。

<何だか分からない今日の名文句>

再会桜

3月29日(月) 散り始め‥‥

 快晴。今日が桜満開と判断して、一日中、桜と共に居ようと決意した。

 脳卒中で2回倒れているので再発が怖い。今度、倒れたらお陀仏。何時、桜が見られなくなってもおかしくない。 あと何回、桜が見えるのかなあ?なんって思うと、一日中、桜の園に居たい気分。

 パジャマの上にチョッキをつけて桜奇行?出発。蔵前デニーズでヒラキ定食。コーヒーを二杯飲んでから、 江戸通りを浅草に向かった。

 春日通りを右に曲がる。さらに国際通りへ。最初に発見したのは金龍寺(台東区寿2丁目)。桜の大木が塀からこぼれている。

 この通り、電脳の集いのような店があり、結構、先端的横丁だが、黄色い「畳やの看板」があったりして、昭和初期を感じさせる。

 新堀通りにぶつかって右。この辺り寺町だが、桜は以外にも少ない。宗丹寺境内に原始時代の奇妙な植物。 重い葉がぶら下がっていて、爬虫類のよう。鳥が近づけば、大きな葉で捕まえるのではないか。

 合羽橋道具街で箸を買う。「鍋かぶり地蔵」近くの松葉公園は満開。松葉温泉の前あたりに「幡随院長兵衛」の墓があった。

 伊能忠敬の墓を見るあたり、桜さくら。桜の寺町。音楽の上野学園を通って、昭和通りを突き抜けた頃、疲れを感じた。 道路脇の石に座る。自動販売機でコーヒー。隣に、本物のホームレスが座り、話しかけてくる。 やっぱり、普通の洋服にしておけば良かった。

 そこへ携帯。「日記の更新がまだよ」と言う。午前11時半。そんなことはない。

 ホームレスと別れて、山手・京浜東北線の歩道橋に向かう。急な坂道。半身不随には難所である。 少し息遣いが激しくなったところで歩道橋。今度は強風。また難所。吹き飛ばされそうだ。

 渡り終えれば上野公園。国立科学博物館、西洋美術館あたり、真っ白い桜トンネル。綺麗だ。桜は富士山より、美しい。 強風に煽られて散る。花吹雪。また、石に座る。

 社会部の記者と遭遇する。街ダネ取材らしい。大変な人出だ。

 動物園表門へ進むところで植木屋を発見。紫もくれんが綺麗なので送って貰うことにする。何しろ安い。1200円。

 満足な左足が痛くなった。仕事場から6キロぐらい歩いたか。「おばけ灯篭」「上野大仏」の間で、 必死で座る場所を探す。やっと見つけて、焼きそばを食べる。

 午後2時半、急いでタクシーで仕事場に戻り「おけら街道」を書き上げ、午後6時半、桜奇行夜の部。一応、 ジャケットとジーンズに着替えて出発した。

 目指すは錦糸町・錦糸公園。江戸3名園の一つ。JR錦糸町の直ぐ脇だ。母校・日大一中では、ここが運動会の場所だった。 懐かしいので選んだ。

 人出が少ないので、ゆっくり楽しむことが出来る。近くにラブホテル林立。成り行きで利用するのもいいだろう。 おでん屋一軒。ちょうちんが風情。ここは東京花見の穴場である。

 正月、知人に紹介された「バー・メモリー」で一服。昭和24年建築。半世紀の「バー」。 たまちゃんの十八番の「よってらっしゃい、よってらしゃい おにいさん」(曲名忘れた)を カラオケで歌う。錦糸町のご当地ソング。そういえば、藤圭子はどうしたんだろう。7年ぐらい会っていない。

 帰りに、もう一度、錦糸公園を覗くと、桜は散り始めていた。午後10時、帰宅。

<何だか分からない今日の名文句>

残る桜も、散る桜

3月28日(日) 「選択」元編集長に“闇より刺客”

 久米さんのNステが終わった。18年間、テレビを見るたびに「この天才と一緒の時代を生きた喜び」を少なからず感じた。

 天才は数々あれど、久米さんは「最後の5秒の一言」で唸らせる「天才中の天才」。

 久米さんは現場無視の人。俺とは、流儀が違う。立花隆さんの現場無視には、違和感を感じるが、 久米さんは「それでも良いや」と思わせる。素人ジャーナリズムの旗手。ご苦労サンでした。(ちょっと告別式のような感想になった)

 会員制月刊誌「選択」の元編集長Aさんが脅迫されていたことが、ついに明るみに出た。 「今に、家族全員が血祭りにあいますよ」というワープロ打ちの脅迫状が彼の自宅に届いていた。 「昔、あなたがかかわっていた闇の世界から」とあった。

 「3万人の情報誌」と言われる会員制月刊誌「選択」は1975年創刊。雑誌「財界」出身の飯塚昭男さんと 湯浅正巳さんが50%づつ株を持ちあってスタートした。

 国際問題から経済界のゴシップまで。「会員制の『噂の真相』」と言われ、スキャンダル満載の雑誌である。

 「片手に論語(倫理)、片手にそろばん(採算性)」で生き延びるのが、情報誌の宿命だが、 編集長を長く務めた飯塚さんは、そのバランスを取るのが上手かったのだろう。成功した。 2001年末の公表部数は8万9000部。現役の新聞ジャーナリストが喜んで書く雑誌という評判もあった。

 内田健三さん、加藤寛さん、椎名誠さん‥‥この雑誌を支持する人も多く、濃くのある内容。昔から良く読んでいた。

 飯塚さんとは二度お会いした記憶があるが、これも「流儀違い」で、この雑誌にものを書くつもりにはならなかった。

 その飯塚さんが昨年8月18日、亡くなった。それが内紛の始まり。葬式をやり方で、社内の意見が分かれた、と聞いた。

 この頃、編集長を勤めていたAさんは、飯塚さんに請われて、日本経済新聞を辞め編集長になった人物。硬骨肌。 どちらか、と言うと「そろばんより論語」だったらしい。葬儀を商売にするな、と言ったらしい。

 その頃、Aさんは古巣の日経新聞のスキャンダルを意識的に取り上げたことがあるらしい。理由ははっきりしないが、 突然、編集長を解任された。

 後任は総務庁キャリアから転進した人物だったが、その新編集長も直ぐに止めたらしい。

 Aさんが編集長を辞める前後から、自宅に脅迫状が舞い込んだ。「手を引け」という脅迫電話も続いたらしい。 その話は、業界に流れていたようだが、警視庁は本格捜査するらしい。

 それにしても、独立派マスコミには、長引く不況で、四苦八苦。プライバシー重視の流れもあり、受難の時代がやって来た、 という感じがする。

 26日(金)には、仕事場に愛子、竜生がやって来た。愛子は小学校に、竜生は幼稚園に入るので、お祝い。

 夜、会社の仲間と、銀座「三献」→観音裏「ひまわり」。20日から、本物のソメイヨシノを飾っていた 「ひまわり」はちょうど満開。今時、本物で「桜まつり」をするところなんてない。

 27日(土)は市川の長男宅へ。優之介も幼稚園に入るので物入り。28日は「物入り」を補う?つもりで、 中山競馬場で“慎重な賭け”に出て、見事、的中した。ところが、配当金が投資額を下回り、ガックリ。ああ、情けない。

 久しぶりの快晴。20℃。仕事場の連翹が満開。人事異動の頃、引越し日和。大事なひとも、引越しした。

<何だか分からない今日の名文句>

ペンは剣より強く、そろばんに弱く

3月25日(木) 大治朋子記者、外信部へ

 評判の毎日新聞「平和立国の試練」が第三部「漂う安全保障」を迎えた。

 25日の一回目はアラスカ基地レポート。ミサイル防衛実戦配備の道を探っている。力作である。多分、他の新聞では 出来ない企画だろう。

 日本は98年から米国と海上配備型ミサイルの共同研究をしている。当然、日米連動。ミサイル防衛に、日本は約1兆円、 必要になる。安全保障を真正面から議論しなければならない時。年金より、大きな問題だ。

 午前中は野暮用。午後に「名馬と時代」を書く。締め切りギリギリ。今回は(特)オンスロード。(特)とは、地方競馬から 中央競馬に転入した馬、という意味だ。

 午後6時半から社会部歓送迎部会。社会部から4月に異動で16人も外に出る。部長の挨拶の後、乾杯の音頭を取る。 「乾杯の音頭ぐらいしか仕事がない」と笑わせた後、「社会部は教養学部。時間が経てば専門学科の部に行くもの」と話した。

 大治朋子記者も今回の異動で外信部に動く。「自衛隊は、自衛隊募集のために住民基本台帳の情報を、自治体に求めている」 とスクープした記者。新聞協会賞を2年連続で獲得したスター記者である。彼女のスクープで、徴兵制が垣間見える。

 彼女、ちょうど「平和立国の試練」の取材でワシントンに滞在中で、部会に出席できなかった。そこでfaxコメント。 「サンデー毎日の城倉さんから一年間、社会部で勉強して来い、と言われ、一年たったら、編集長が女は要らない、というので、 社会部に居座りました‥‥」と経緯を説明。4年前まで、本人も国際記者になるとは思わなかった。これ、スター誕生秘話だ。

 先輩の安藤守人記者が、この日、定年式を迎えた。かつて「文部省解体論」を展開した軟派記者である。部会での挨拶で、彼は 「ニュースはエンターテイメント」と看破していた。

 週末は花見になるのだろうか。わが社でも、恒例の「岩見さくら」(政治部の大先輩・岩見隆夫記者主宰の花見)が準備され ている。

<何だか分からない今日の名文句>

桜と共に世代は代わる

3月24日(水) 「わたしの食卓」創刊

 朝一番で「わたしの食卓」が郵送されてきた。毎日新聞が「サンデー毎日増刊」という形で創刊する「食と健康」の 新しい雑誌。湯浅啓が編集長になって始めての仕事だ。

 湯浅は16年ほど前、銀行に勤務していた時、朝日新聞に「銀行の狡さ」を投稿し、それがキッカケで銀行を退社し、 ジャーナリストの道を選んだ。サンデー毎日が初めて契約記者を募集した時、彼は敢然として応募してきた。

 当時、編集長だった鳥越俊太郎さんは「この人間だけは取りたい」と言い、ある女性記者を選んだが、行く行く編集長に なる僕に「後はお前が選べ!」と命令した。

 残りの枠は3人。いろいろ、考えた末、男性2人、女性1人、補欠1人の枠を作って人選したが、これが難しかった。 応募者の半数以上が優秀だった。

 誰を選ぶか、迷った。そこで、男性記者に限っては「正義感」で選ぶことにした。原稿は下手で良い。鍛えれば良い。人間 関係は下手で良い。上手な奴は何人もいる。でも「正義感」は生まれ持った資質。それで湯浅を選んだ。

 (残りの男性一人は、 いまサンデー毎日の名物デスクになっている城倉。これも正義派だった。湯浅と共に、その後、正社員になった。女性は「感性」 で選んだ。最後まで某小説家の娘さんと有名なレストランの娘が残ったが、レストランの方を選んだ。優しかったから。補欠は時々 「掲示板」に登場する「花屋の親父」である。暫くして契約記者になって、活躍したが、テレビ界に引き抜かれ、今は地方議員に なっている)

 その「正義感」だけが取り得の湯浅(失礼)が編集長になった。その第1号の仕事が「わたしの食卓」創刊である。胸躍る。

 一気に読んだ。中々の出来である。カラー写真がいい。表紙もまずまずの出来だ。実は、奴に出来るかなあ? と心配していた。 人間関係はまだ子供? で、統率力には疑問が残る。心配だった。

 でも、85点の出来。成功だ。彼に、必ずしも、この種の雑誌に求められる感性があるとは思えないから、スタッフの力が大き かったのだろう。スタッフに恵まれるかどうか、が雑誌の成否を決める。それに、上司と関係ももちろん大事だ。可愛がられている のだろう。湯浅、お前は幸せものだ。

 スタッフと時に喧嘩しながら、ある時は、独断と偏見で編集権を押し通し、ある時はスタッフに全面的に任せる。このバランスが 難しい。この辺りで苦労したと思うが、作品を見る限り、スタッフの協力を結集出来た、という感じ。良かった。

 雑誌は出来た瞬間から、もう売り上げ。創刊号が売れないと、窮地に陥る。奴、一段と、痩せるぞ。

 「わたしの食卓」定価税込み600円。オールカラー132ページ。25日発売。書店、湯浅を知る人たち、ぜひ、読んでくれ。 書店で、毎日新聞販売店で是非とも注文してくれ! 知らない人も、僕の顔を立てて、買ってくれ。損する内容ではない。

 「花屋の親父」に告ぐ! お前、50部ぐらい買ってやれ!

 午前、散歩がてらに「たいとう診療所」。福井に嫁入りする橋本嬢に餞別として、ネッカチーフを贈る。「六本木の帝王」に ばったり。やっと歩けるようになったのに、彼、ヘルニアになって3日入院したとのこと。不運だな。でも元気。食べようとした 草団子をプレゼントする。

 午後2時ごろ、官邸で構造改革特別区域認定書授与式が行われた。石川県三川町の「ネット高校」が選ばれるので、覗いてみようと 思ったが、これも野暮用で断念。このところ、忙しくなるのは年度末だから。

 夜、アトレ品川の「BOBOS」で主治医の大山ドクター一家と夕飯会。例によってドクターのマスコミ批判。「文春の一件、やり すぎたプライバシー侵害で、国民はうんざりしている。だからマスコミを応援しない。そこが権力の思う壺」。ご無理ごもっともで、 返す言葉をなくし、23時半まで。

 ドクターから「牧さん、ことしは還暦だから、ちょっと早いお祝い」と洒落たグラスを頂戴する。恐縮。奥さんが選んだ店。オーガ ニック野菜釜1200円が美味かった。

 仕事場に戻り「掲示板」を覗くと、ちょっときな臭いので、ちょっと書き込み。気分爽快の「掲示板」でありたいから、ご意見。

 なお、今週、来週、春の選抜高校野球で紙面がなく「ここだけの話」休載。

<何だか分からない今日の名文句>

お節介も芸のうち

3月23日(火) 田英夫の質問

 朝、たいとう診療所。僕のリハビリを担当してくれた橋本嬢が「福井へ引っ越す」と言い出した。どうして。小さな声で 「結婚するの」。おめでとう。八戸生まれが福井に嫁入り。

 そう言えば、受付の看板娘も見えなくなったが‥‥今井院長に聞くと「六ヶ月なんですよ。彼女は産休ですよ」。エッ、 彼女、結婚してたの?

 春だなぁ。

 午後、参院予算委員会で社民党の田英夫さんが質問した。社民党の参院議員は5人。小所帯。短い短い質問だった。

 しかし、良い質問だった。真っ正直な質問だった。「殺し合いの連鎖をどう考えるのだ」と小泉さんに詰め寄った。小泉さんは 「イラク復興が安定を生む」とだけ答えた。さっさと田さんは質問を止めた。

 小泉さん、苦渋に満ちた表情だった。イスラエル、全面戦争は近い。

 小泉さんは自己矛盾に陥っている。アメリカと同意の上で、イスラエルは「ハマス要人殺害」を決めた。最初の暗殺はヤシン師。 続いて‥‥ヤシン師の喪が明ければ全面戦争だ。アメリカはハマスの標的になる。もはや、逃れられない事態だろう。

 日本はサマワに自衛隊を派遣している。これは人質のようなものだ。だから(多分、アメリカの同意を得て)イスラエルを非難 した。強い調子で非難した。

 しかし「イスラエルに自衛権あり」と主張するアメリカは、ある時点でハマスと対決するしかない。そうなると、日本はどうする のか。

 イラク復興支援と言っても「同盟国アメリカ支援」である。同盟国が更なる支援を求めることは明らかだ。イスラエルでは、 反アメリカになりうるのか。小泉さんの自己矛盾はさらに拡がる。

 田さんのまともな質問に小泉さんは深刻な表情だった。小手先の質問ではなく、正攻法だったから、小泉さんは苦しかった。 小泉さんだって、自分に嘘はつけない。

 しかし、このやり取りは「小党の言い分」ということで、新聞に載るかどうか微妙。

 夜、副編のお兄さんが、パソコンのメンテナンスに来てくれた。午後11時まで温泉三昧の話。話は暖かいが、外は寒い。

<何だか分からない今日の名文句>

「花の雨」と申します

3月22日(月) 吉田俊平さん、逝く

 吉田俊平さんが19日朝、死去された。62歳だった。肝不全だったらしい。酒が好きだったから‥‥。

 俊平さんは、僕がサンデーの編集長だった頃の書評担当。大変、厄介になった。彼に任せておけば、週刊誌としては ナンバーワン書評が出来る。

 その後、彼は、単行本を作る責任者になり、高村薫さんの「レディ・ジョーカー」など大ヒットを飛ばした。出版局長 という管理職にもなったが、むしろ職人。超一流の編集者だった。

 早すぎる。無念。

 作家の花村萬月さんが公式ホームページで、彼のことを「癖のある人」と表現しているが「こだわりの強い人」と言った 方が良い、と思う。兎に角、毎日新聞には珍しい、粘着性の強い人物だった。

 22日昼、鎌倉の斎場で告別式が行われるので、参列するつもりだったが、朝、急な野暮用。参列を断念。東京の雨空に 向かって哀悼。申し訳ない。

 野暮用を済ました午後4時ごろ、スポニチから「武がハルウララに乗る。これを書いてくれ」という突然の注文。忙しくなった。 新橋の場外で高知競馬が発売されている。ウララ馬券は全国発売で、新橋でテレビは見えるのだが、間に合わない。ラジオで間に 合わせる。

 普通に走ってブービー。良いじゃないか。仮見出し「負けるが勝ちさ、人生は」を一時間で書き上げる。知り合いに、馬券を3枚、 頼んだ。5と1の単勝。それに真面目な推理で馬連の1−2。2着3着で外れ。

 夕方、神田神保町の「揚子江菜館」で、松上ちゃんを囲む会。「松上文彦」は、新潟支局で「一番、可愛がった後輩」。何でも 相談した仲である。出世して、僕の上司になって、面倒を見てくれた。後輩に道を譲ったか、いち早く優良関連会社の役人に“天下り?” した。新潟の同人が送別会を開く、と言いながら、延び延びになっていたが、やっと実現した。

 ここ数年、白髪が増えたが、元気ハツラツ。人の面倒を見る苦労人で、趣味といえば競馬ぐらいだが、最近、車を運転するように なったらしい。

 それより元気なのが、松上の一期下の大野明。独立してフリーのスポーツライターをしているそうだが、何故か、社にいる時より、 ズバズバ話す。意見がしっかりしている。社会派として一皮剥けたか。先輩の蕨南さんは相変わらず「小言幸兵衛」。元気すぎる。

 掲示板に「浅野健一さんの意見について編集長はどう思っているか?」という質問が出ている。

 浅野さん? 興味なし。俺はまともな人間だから。

<何だか分からない今日の名文句>

外れが勝ちサ、人生は

3月21日(日) テレビ局の自己“検閲”

 田中真紀子長女の「私生活」を掲載した「週刊文春」に出版禁止仮処分決定問題で、文春側が異議を申し立てていたが、 19日(金)夜、東京地検は“予想通り”申し立てを退けた。「元外相の長女らは私人。私事は公共の利害に反しない事項 ではなし」。「予想通り」だった。

 何故「予想通り」かと言えば、仮処分を決定した裁判官は「変わり者」ではなく、地裁の幹部であったこと。それも一人で 判断した。と、言うことは、地検内部にすでにコンセンサスがあった、と言うこと。「この種の訴えがあったら、出版禁止 仮処分を行う」という意思決定が地裁内に存在していた、ということである。高額の賠償金に次ぐ措置だ。文春は「飛んで火に いる何とやら」である。

 断じて、一裁判官の独断ではない。「××実話」と言ったメディアではなく「田中角栄の金権」を書いた文藝春秋であり、 天下党幹事長・山崎拓さんを窮地に追い込んだ「週刊文春」に対してだから、地裁が「判断」した。申し立てで、結論が ひっくり返ることなんて‥‥甘くはない。

 地裁の意向は権力側の意思を先取りしたものであるか、どうかは、即断できない。プライバシーの侵害があまりに激しい。 世論はメディアに厳しい。地裁の判断が誤っている、とも言えない。しかし、である。少なくても、与野党問わず「言論側の 敗退」にほくそえんでいる政治家は沢山、存在する。

 明らかな雑誌いじめ、になる。テレビ、新聞と雑誌メディアの分断を図る意図は見え見えである。御用記者だけの時代になる。

 年頭「覚悟の年」と書いたが、言論に対する圧殺は早くも顕在化した。1904年、日露戦争が始まった時、検閲が激しくなり、 新聞記者は弾圧され、記者倶楽部を作って対抗した。が、今や「記者クラブ」の記者だけが、御用記者として生き延びるような 雰囲気である。

 新聞各紙の社説ははっきり分かれた。相変わらず「朝日」は何を言っているのか、分らない。だから、朝日は関係ない。読売は 地裁支持。毎日は「ゴシップ記事を読む権利」を主張した。

 問題は「プライバシー権の肥大化」。「真紀子さんの長女」のプライバシーで、他の記事が隠蔽されることの恐ろしさ。権力側は 今回のことで、事実上の検閲を可能にした。

 早くも、東京在留の某テレビ局では「田中VS文春は一切、触れるな」という「お達し」を出したという。

 何も言えないテレビ局。何も言えない新聞。幸か不幸か「自由な言論」の毎日新聞が期待されるムードになっている。

 週末、野暮用。お遊びは「竜小太郎」を鑑賞しただけ。「流し目のスナイパー」は健在だった。

<何だか分からない今日の名文句>

君子、危うきに近づかねば

3月18日(木) エヘッ、これは歴史的勘違い

 20数年ぶりに早稲田の友人Iに電話をした。Iは新聞学科の同級生。浅草橋近くの帽子屋の息子で、お互いの 実家が近かったので、入学式から仲良くなった。YMCAのダンス教室にそろって通ったこともあった。

 卒業してからも付き合いは続き、ある夜、数件、飲み歩いて、結局、市川の我が家で飲み明かすことになった。

 午前一時近くになって、突然、Iが「帰る」と言い出した。記憶がはっきりしないのだが、酒の勢いで喧嘩になった。 僕が何か気にかかることを言ったのか、はっきりしないが、Iは憤然と我が家を出て行った。

 絶交!である。僕が腹を立てる言い草があったように思う。僕の方から電話もせず、彼の方からも電話はなかった。 江戸っ子の癖に、僕は頑固だ。こちらから、頭を下げる訳にはいかない。

 業界紙で、そのIが定年で文部科学省を退職することを知った。四国に赴任していたのは知っていたのだが、今回は 東京に戻って来るらしい。どんな生活をしていたのか。60歳になると昔の友達が恋しくなる。思い切って、朝、四国に電話した。

 「牧です。覚えていますか?」と聞くと「‥‥大学の?」「そうそう、早稲田の牧です」「いっやあ、久しぶり。懐かしいな」

 「喧嘩別れになってしまったから‥‥」と切り出すと「いやあ、あれは喧嘩じゃないんだ。息子さんが喘息の発作を起こしたので、 いたたまれなくなって、家を出て、あの夜は、浅草橋の実家に泊まったんだ。断じて、喧嘩ではないんだ。でも、何となく、 連絡が取りづらくなった‥‥」。

 小学生時代の史郎の喘息は重かった。夜中になると苦しんだ。それを見たIがいたたまれなくなったのか。僕はそのことを 覚えていない。と、言うより、当時、我が家では長男の喘息は毎夜のことだった。

 そうだったのか。喧嘩で「帰る!」という舞台を造ったのか。これは誤解だった。歴史的誤解だった。

 彼が新しい東京の職場に来たら必ず逢おう、と約束する。電話を掛けてよかった。そのまま、死んだら、申し訳ない。

 午後、TBSの野暮用。続いてJRA六本木事務所。

 石川県美川町の町長から携帯に留守番電話。以前、この日記で紹介した「全国初のネット高校」。内閣府に教育特区を申請して いたが、ついに認定され、17日記者会見をしたらしい。「美川サイバータウン教育特区」。9月に開校の運び。

 毎日新聞は一面で報じたが、町長の留守番電話では「大変な反響だ」という。良かった、良かった。

 この町長は日本を再建する力を持っている。石川県でただ一人の反森派でありながら、4期連続無投票当選。それだけで 特筆ものだが、白山市の合併にまっしぐら。特例を使って議員の定数をそのままにする町村が多いが、彼の尽力で、最小限度の 議員数になるらしい。このことは3月26日発売の「世界週報」にサラリと書くつもり。

 仕事場に帰って、テレビで「サッカー・アジア最終予選」。2点、取ったところで、眠る。サッカーはそれほど好きではない。 隙を狙うスポーツは何となく、性に合わない。だからプロ野球も、好きではない。

<何だか分からない今日の名文句>

団体技より個人技

3月17日(木) おそまつ文春、おそまつ発禁

 真紀子VS文春。裁判所を巻き込んで大騒動になった。

 朝、専売病院に向かう途中、友人から携帯。16日、東京地裁が「田中真紀子長女もの」を掲載した「週刊文春」を 出版禁止の仮処分命令を出した。この件で「驚いた。何が書いてあるの? 出生の秘密なの?」と聞いてきた。

 彼が、こんなことを聞いてくるとは‥‥これは文春、飛ぶように売れるな‥‥「離婚話らしいよ」と答え、 病院についてから早速、地下の売店で購入した。

 独占スクープ!と書いてあるが、要するに「長女が離婚した」というだけの話。10行もあれば十分のゴシップネタ。 仰々しく「独占スクープ」なんて書くなんて。僕だったら、多分、載せない。

 一応、有名人の家族にもプライバシィーがあるんだし、こんなネタで売れるはずがない。ネタ不足のおそまつ文春。

 でも、これに腹を立て、裁判所に訴えるなんて、真紀子サンも真紀子サンだ。文春を潰すつもりなんだろう。

 自民党は文春を利用することもあるが、総じて週刊誌は天敵。「ようやった!真紀子」という気分だろう。

 しかし、裁判所はもっとお粗末だ。「発禁」を一人の裁判官の判断で決める。多分、政府の意向を先取りしたんだろうが、 この程度のゴシップネタで、正面から「言論の自由」と渡り合うなんて。

 週刊文春の残りの、大部分の情報(150ページぐらいか)を知る権利と、このゴシップ情報を秤にかけ 「真紀子さんの娘」のプライバシーを最優先するなんて、考えられない。いくら、言論統制(暗黒)時代の幕開け、と言っても「テーマ」が軽すぎる。

 専売病院の定期健診。血圧137−70。まずまず。

 銀座4丁目「和光」前で、敦子・優之介親子と待ち合わせて、松坂屋で「靴」をプレゼント。 4月から優は幼稚園。

 仕事場にもどり「名馬と時代」を書いていると、大阪スポニチから「文春問題」でコメントを求められる。 「俺なら書かないネタ」だが「発禁は許せない」との立場でコメントする。

 こんなことが、次々に起こると、御身大事なデスクがビビッて「生きの良い情報」は闇から闇に葬られていく。それが怖い。

 護憲勢力を潰した権力は「表現つぶし」に向かっている。

<何だか分からない今日の名文句>

脇アマ娘に脇アマ記者

3月16日(火) 新井将敬は「総理」を目指した

 朝、葉書一通。「前略 昨年の暮れ、CBC賞の1−5を外して涙を呑んだ万馬券を、明けて3月14日中京 11R遠州灘特別1−5、3万8000円をヒット、溜飲を下げました。ラジオの中継アナが着順を1、2といった ので、一度はゴミに捨てかけていました。わが馬券人生、最良の日を記念して、思わず、お葉書、差し上げました。 竹岡準之助」あの人が競馬を? と驚くほど、最近「意外な人の幸せ」が舞い込む。ハルウララ現象が、再び「競馬自慢」 の雰囲気を作っている。

 八戸・坂本牧場のお嬢から「トーカイテイオーの子供が生まれた」というメール。春だなあ。

 「週刊現代」に連載中の「コリアン新井将敬・7年目の真実」を注目している。第三回(3月20日号)は予想されたように 「中傷ビラ」の話。彼が始めて立候補した時、ポスターに黒いシールが張られた。「41年 北朝鮮より帰化」と書いてあった。 (実際には韓国より帰化) 1982年11月19日の朝のことである。

 ポスターに黒いヒールを張っていたのは、同じ選挙区の石原慎太郎衆院議員の公設第一秘書‥‥石原は選挙妨害をしたのでは なく「日韓に摩擦が生じた時、二つの祖国を持つ議員はどう動くのか?」と考えた。はっきり立候補者は選挙民に「身分・帰化」 を明らかにすべきだ、と考えていたようだ。

 有力政治家になった新井は「総理」を目指したが「帰化」は障害になったのか。そして、何故、死を選んだのか。宮本雅史さん のこの作品、その謎に肉薄している。

 原稿を2本、書き上げ、隅田川沿いを浅草まで散歩。桃、白蓮‥‥汗が滲む。

 出社後、打ち合わせ。

 伊東温泉の開設記念に原良馬さん以下「松戸競輪友の会」の面々が遠征している。仕事の関係で、参加できなかった。残念。 原さんに携帯で、最終レースを頼み、惨敗。

 夜、東麻布の「富麗華」で、わが社の斉藤明社長らと夕食。中国枇杷の生演奏が洒落ていた。

<何だか分からない今日の名文句>

春のウララの隅田川

3月15日(月) 「読売の誤報」が‥‥

 終日、野暮用。午後3時ごろ、八重洲口の180円コーヒーで、一息ついていると、たまちゃんから携帯。 「読売が夕刊でやっちゃいました」。読売は夕刊の一面で「Qちゃん、五輪代表へ」(4版)と打ったのだが、 陸連の決定は「高橋落選」。読売の読者は「高橋、アテネへ」を読みながら、テレビでQちゃんの「残念会見」を 見ることになる。

 まさに「やっちゃった」という印象である。功を焦った。読売の社風からすると、記者は飛ばされる? 気の毒だ。

 毎日の夕刊は「アテネ五輪 マラソン代表、午後決定」と言う穏やかな見出し。考えてみると、これも、広い意味 では「意味のない記事」ではないか。毎日の読者はテレビで「代表決定」を知りながら「午後決定」を読まされる。

 読売の記者はテレビを相手に「速報性」を競い、結果的に誤報をした。他の新聞は「遅れたニュース」と知りながら 「経過」を書く。新聞の、特に夕刊の「限界」を知らされる思いだ。

 二週前の週刊文春(3月11日号)の「新聞不信」欄に「夕刊廃止は時代の流れ」という文章が載っていた。テレビの 速報性に叶わないのだから、産経のように夕刊をやめろ! という主張だった。その主張を裏書するような事件。また、 夕刊廃止論が出るかも知れない。

 しかし、これは短絡的な意見だと思う。「夕刊」は多分、速報で生きるのではなく「お楽しみ定食」のような存在として 残る。夕刊を楽しみにしている中高年の読者は想像以上に多い。朝刊を隅から隅まで読んで、夕刊が来るのを楽しみにする 人は多い。毎日夕刊はそんな存在になっている。

 ニュースを夕刊でいち早く知りたい、という人はそれほど多くはないだろう。まったく違うものを新聞に求めている。 毎日の夕刊は、テレビと違う「大人の風刺メディア」になろうとしている。

 僕の「ここだけの話」は意識的に風刺コラムを目指している。目に見えて、お客さんが増えている。今回は「見せ掛けの 景気回復」を書いてみた。題して「キサスキサスキサス」。読んでくれ!

 夕方、 出社後、神田の居酒屋へ。同僚記者の愚痴を聞く。「やめたい!」なんて言いなさんな。午後11時過ぎまで。 サラリーマンはやるせないものだ。

<何だか分からない今日の名文句>

短気は損気

3月14日(日) 白檀の香り

 週末、東京駅八重洲口で西国第32番札所「きぬがさ山(漢字が出ないので平仮名にした)観音正寺」の キャンペーンにぶつかった。

 推古13年、聖徳太子が自ら千手観音像を刻み、近江の「きぬがさ」の山頂に堂塔を建てた。これが観音正寺。 平成5年5月22日、火災が起こり、本尊が消失した。

 山主の岡村潤應さんは責任を痛感、托鉢を続けていたが、ある日、観音さまの声と「白檀」のことを書いた 経文の文句が聞こえてきた。

 「白檀はその香木自ら芳香、また薫じた時の香りによりて人々は救われる」とある。岡村さんは、白檀で 本尊を造ろう、と決意した。

 ところが、総白檀丈六千手観音像(高さ4.85メートル)を造るには原木23トンが必要だった。仏教伝来の地、 インドから原木を輸入しよとしたが、白檀は輸出禁止品目だった。

 彼は何度もインドへ渡り、輸出を懇願した。「観音の言いつけだ」と言い続けた。

 インド政府から特別許可が降りた。インド政府の高官は「ヒンズーの神様と観音様が話し合って決めたから」と 言ってくれた。

 実際には、仏教ばかりでなく、ありとあらゆる宗教関係者がインド政府に掛け合ってくれた。宗教戦争のような 昨今、いい話ではないか。

 「100人の人に白檀のくずを差し上げる」というので列に並んだ。本尊と同じ香り。何か救われた気分。

 週末は野暮用ばかり。暇を見つけた競馬は土日とも惜しいところで外れ。でも、腹が経たないのは、白檀のおかげ なのかしら。

 観音正寺(JR安土駅から登山)は5月22日、総白檀ご本尊開眼法要。

<何だか分からない今日の名文句>

現世、過去世、来世、三世の安心

3月11日(木) 長嶋さんの容態

 長嶋さんの容態について、主治医が記者会見した。この日発売の週刊文春、週刊新潮が 「容態は新聞が言うほど軽くない」と報じている。果たして‥‥。

 実は長嶋さんが倒れてから、出来るだけ気にしないようにしていた。何故、気にしないかと言えば 「再発」が怖いからだ。長嶋さんのようになるのではないか、と怖くなるのだ。 小渕さんの時も、同じように鬱になった。再発が怖くなり、花の咲いているところへ行こうと思った。

 この精神状態は一度、脳卒中になった人にしか分らない。まして、僕は出血1回梗塞1回。前科2犯なのだ。

 記者会見の模様を見て、大分、分った。スポーツ紙がいうように軽くはない。主治医が 「3ヶ月、6ヶ月、1年、長い目で見守って」と言っているのが、容態を的確に現している。

 まず言語。失語症はない、と言っているが、病室に「あいうえお」の張り紙。これは僕も同じだった。 「あいうえお」を必死で勉強した。構音麻痺があるのだ。これは徐々に回復するだろう。 失語症はない、というのが本当なら、言語はやられていない。

 手足の麻痺は軽いようだが、それでも3ヶ月ぐらい入院が必要ではないのか。

 梗塞は起こってから直ぐ入院すれば、点滴で直ぐ治るケースが多い。僕の梗塞は発見が早かったから、軽症だった。 長嶋さんは入院が遅れた。梗塞だからまだ良い。

 逆に出血は手術が出来ないと重い。僕は手術が出来なかったので最悪だった。 だから、3日3晩、意識不明。葬式の準備をした奴もいる。

 長嶋さんは、時間は掛かるが、必ず元気になる。少なくても僕より軽い。 長嶋さんが元気になれば、卒中患者の励みになる。長嶋さんは多分ミスター脳卒中になる。

 豊の公式ホームページを見ると、彼、ハルウララに戸惑っている。スポニチの「おけら街道」で 「豊が乗るのは、秋の引退レースなら良いけど」と書いたが、豊によると「これが最後なので」と 言われたから引き受けたらしい。

 ところが、高知競馬は「まだ走らせる」と言ってきたらしい。救世主ハルウララもいささか気の毒。

 毎日新聞社会面に連載が始まった「凍った眼差しーーホームレス襲撃事件」を興味深く読んでいる。 仕事場がある隅田川の体面・両国に青テントが並んでいる。台風の時、増水して、テントが流される場面を 何度か目撃した。どんな生活なのだろうか。ホームレスの生き方に興味がある。だから、熱心に読んでいる。

 12日の朝刊に「おわび」が出るらしい。

 10日朝刊「凍った眼差し」で「すぐに身元は割れた。かつて『誤認逮捕』された指紋が、残っていたからだ」と あるのは「すぐに指紋で身元は割れた」の誤りでした。お詫びして、訂正しますーーという「おわび」が出るらしい。

 どう言う「間違い」だったのか、良く分らない。「誤認逮捕」は、この続きものをキーワードではないかと 読んでいたのだが‥‥「誤認逮捕」があったのか、なかったのか、そこが「おわび」では分らない。 あまりに不親切な訂正ではないのか。

 連載中なのだから、本文の中で何故、訂正したのか、きちっと説明すべきではないか。連載中という利点がある。 スペースはある。天下一品のような「訂正」を書いたら、どうだろう。

 「誰々さんの年齢は51歳とありましたが57歳でした」とは違うんだから。

<何だか分からない今日の名文句>

「おわび」も芸の内

3月10日(水) 東京大空襲

 1945年3月10日、東京大空襲。あの日から59年たった。

 仕事場がある隅田川沿い。母は生まれて5ヶ月の僕を背負い、逃げまどった。もちろ ん、いま仕事場になっている料亭・深川亭(戦争で休業中)はあっと言う間に、全焼し た。隅田川の言問橋に、B−29から被弾した人々が殺到。台東区側から逃げた人と墨田 区側から逃げた人が橋の真ん中でぶつかり、火の粉をかぶった人々は全身やけどで、隅 田川に飛び込んだが、ほとんどが死亡した。(慰霊する震災記念堂は僕の母校・日大1 中1高の隣にある)

 母の記憶では、経済犯で逮捕された父・小林春吉は、この時、鶴見の刑務所(拘置所 ?)に収監されていたが、空襲のドサクサで娑婆に戻って来たらしい。

 我が家に取って、空襲はここ100年、最大の事件だった。毎年、3月10日がくる と、母は決まってこの日のことを思い出し「この世のものではなかった。絶対に戦争 してはいけない」と言い続けた。

 だから僕の家は反戦だ。江戸の平穏を破った薩長を批判して、薩長に官僚主義に反対 し、彼らが行った戦争に反対するのが、我が家である。東京下町、というより、薩長が 来る前の江戸っ子は反戦である。

 東京大空襲を知らない日本の指導者が、いまアメリカ帝国主義に何から何まで荷担し ている。イラクで、アフガンで民衆の命があまりに簡単に奪われている。それで良いの か。もう散ってしまっただろう、と思いながら、伊豆・河津桜まつりを見に行く。や っぱり散っていた。でも、菜の花が綺麗だった。

 帰りに稲取に途中下車して「雛のつるし飾り」を見る。稲取では、雛祭りの際、雛壇 の両側に一対の「つるし飾り」をぶら下げる風習がある。きらびやかである。ぶら下げ た人形の一つ一つに思いを込め、子供たちの幸せを祈る。女の子の幸せとは「良縁」な のかな、と最近、思うことが多い(「まつり」は3月31日まで)

 「ジャパネットたかた」の情報流失騒動。高田社長、見事なものだ。お詫びと「通販 自粛」の記者発表。見事なものだ。自粛で生じる損害は数十億円だが、広告料と考えれ ば安いものだ。いち早く、記者会見でお詫びし、けじめをつける。結果的に「ジャパネ ットたかた」は被害者、という図式になる。「ジャパネットたかた」を知らない人も、 これでいなくなった。

 3月いっぱいで自粛は終わり。年商700億はもっと増えるかもしれない。

 対応策では、あの浅田農産とは比べモノにならない。広告出稿で貢献してもらってい る新聞も、とりわけテレビは「ジャッパネットたかた」の味方になるだろう。

 まる投げで、何も知らない指導者より、自分でCMを演じる社長の方が信頼が出来る気 分になる。見事なもんだ。

<何だか分からない今日の名文句>

謝り上手は危機管理王

3月9日(火) 「噂の真相」休刊

 「小泉内閣がいよいよイラクへの派兵を開始しました。平和憲法と国連中心のこれま での指針を捨て、大義なき戦争に踏み切った米国の占領政策への追従は日本の将来を確 実に危険な方向に導いていく愚策と言わざるを得ません。そんな日本の将来に絶望した という訳ではありませんが……」という書き出しの「寒中見舞」を貰って一ヶ月余りた った。絶望したわけではない? 岡留安則さんの「噂の真相」が3月10日発売の4月号 を最後に休刊となった。創立25周年記念号である。

 岡留さん、ご苦労さま。と言っても残務整理で1年ぐらいかかるだろうし、単行本を 書いているようだから、忙しいのだろう。

 夕刊フジなどは「同時進行ドキュメント」で休刊の模様を連載しているようだ。実は 、岡留さんの真意を取材したいと思っていたが、多分、取材陣が殺到していると思った ので、ちょっとずらそうと思う。何となく「休刊セール」の宣伝に乗るような原稿にな ったら岡留さんにも失礼だろう。

 「噂の真相」ではサンデー毎日の編集長の頃、特集で扱って貰ったことがある。この 雑誌にしては極めて好意的な扱いだったのを覚えている。(匿名座談会では、いつも悪 口ばかりだったが)

 5、6年前、毎日新聞メディア面で「雑誌・斜め読み」というコーナーを持った時、 逆に取材させて貰った。その時、岡留さんに始めて会ったが、噂通りエネルギッシュな 人物だった。

 全共闘崩れ(失礼な表現だが)の雰囲気でヘビースモーカー。ゴールデン街で毎夜、 酒を飲みながら、ネタを仕入れては20万部の雑誌を作る。その癖、隠れて? 健康志向 の青汁を飲んでいた56歳。名誉毀損で訴えられることは日常茶飯事。ストレスも溜ま っているだろう。ひょっとすると、健康のための一時休刊かも知れない。

 印刷された寒中見舞の終わりに実筆で「あとは牧さんに期待しております。ご健闘を 」と書き添えてあった。多分、引っ越し挨拶状に「近くにお寄りの節は……」と書くよ うなものだとは思うが、僕ももう少し頑張らねば、と思う。何しろ、ものが言い辛い時 代になったのを実感し「覚悟しなければ」と決意するジャーナリストが少なくなった。

 ともかく、僕と流儀は違うけど、岡留流がいなくなっては淋しい。

 早く起きて、終日郊外で野暮用。梅が落ちている。

<何だか分からない今日の名文句>

「言論放棄」はガンのうち

3月8日(月) 被害者→加害者→被害者

 浅田農産会長夫婦、自殺。

 実は前日(7日)の記者会見をテレビで見ながら、思わず「この人、死ぬかも」と感 想を漏らしていた。僕の脇にいた人も「自殺するぞ」と呟いた。新聞記者の勘。「自殺 の恐れ?」なんて日記でも書けないが、誰かが、止めなければ……と思った。あの顔つ き。あの手の善人は死を選ぶケースが多いのだ。それにしても、まさか、こんなに早く 、現実になるとは……たまらない気分だ。

 浅田農産は被害者だった。どこかからか飛んできた鳥インフルエンザウイルスの被害者 だった。それがいつの間にか「押しも押されぬ加害者」になった。

 インフルエンザ感染をどれだけ認識していたのか、分からない。養鶏業者のこれまで の常識、死ぬ鳥が出たら、残りをすぐ出荷する、というやり方を取ったのだろう。事態 を正しく認識出来ず「嘘つき出荷」と言われるような結果になって「加害者」になって しまった。全く経験がないことに直面して、どうして良いか分からないということ、どこ にでもある。

 「犯罪」を犯しているなんて認識はなかったのだろう。それが「嘘つきの加害者」に なった。「嘘つき」と言われるのが致命的だった。

 怒濤のような報道陣を前に、どうしたら良いのか、浅田一家は立ち往生した。そして 、何が起こっているのか、正確に認識しない内に自殺を選んだ。

 この種の騒ぎでは、役所が非難の対象になるケースが多い。しかし、その場合「農水 省」という組織の責任であり、個人は標的にならない。組織の犯罪として非難され、ぼ ろくそに言われるが、個人は平気だ。「組織ぐるみ」と言われると、皮肉なことに、個 人は助かる。組織が個人を守る。悪口になれている組織、潰れない組織だから、何を言 われようと平気だ。

 今回は、農水省は女性課長のソフトな広報で、批判されるスキがない。そこで、悪者 は浅田農産という民間業者になった。

 雪印のことを思い出す。あんな大きな企業でも、民間業者が標的になるともろい。

 浅田農産は「雪印」を思い出したのだろう。一代で築いた「浅田の卵」は崩れ落ちる 。会長夫婦はたまらなかった。

 加害者になった夫婦は死を選ぶことによって「被害者」になった。権力を持つ組織と 「加害者」になった個人の力関係をまざまざ、と見る。

 それにしても、誰もが、被害者だと思っていたら加害者になってしまうような複雑な 、スピーディーな世の中だ。

 朝「ここだけの話」を書く。秘書給与が貧乏議員の米櫃になっている。この貧しさが 政権党を利している。そんな原稿。見出しを「貧乏議員、殺すにゃ」としたら、デスク のT君から「刺激的すぎますよ」と言われ「家族が秘書なら」という穏やかな見出しに する。確かに刺激的だった。T君には、いつも助けて貰らっている。

 夕方、歯医者。これで一応、治療は一段落。夜、水道橋の全水道会館「福島みずほを 励ます集い」を覗く。

 みずほさんは、今年に入ってからの付き合い。突如「党首」に祭りあげられ、苦労し ている、と思っていたが、実に元気である。ご主人を紹介されたが(別姓夫婦)、この 弁護士さんが、また元気なのだ。

 社民党に最後のチャンスがあるとすれば「元気」だろう。神奈川選挙区で出る上田け い子という人は、輪をかけて元気だった。

<何だか分からない今日の名文句>

一掬の涙

3月7日(日) 吉野家にて

 日曜日(7日)の朝、郊外の吉野家へ行く。「豚丼なる新メニューは結構、いける」とJRAの横ちゃんが 言っていたので初めての味見。何か、牛丼と同じような味がする。牛丼とノーハウが同じなのか。

 前の席のオヤジが、何やら躊躇している。早く食べれば良いのに、ため息をついている。オヤジのメニュー は特朝定食なるもので鮭、納豆、卵、のり、味噌汁。豪華である。でも、オヤジ、躊躇している。何を躊躇 しているかと思うと、生卵を納豆の器に入れるかどうかで悩んでいるようだ。ジッと観察した。

 なるほど。鳥インフルエンザにかかった鳥でも加熱すれば大丈夫、と伝えられているが、オヤジは「生卵は 大丈夫か?」と怪しんでいる。生卵も大丈夫だ、と言っているのだが、このオヤジは、まだ疑っている。

 日本は大変なことになりつつある。食品不信時代、到来なのか?

 オヤジ、約2分半、躊躇した。その間、味噌汁を飲んだり、のりで海苔巻きのようにして飯を食べ、生卵の器に 箸を入れそうになりながら、また、躊躇し、おしんこに方向変更したりして、最後は‥‥一気に、一気に、生卵を 納豆の器に入れ、箸を回して最後の飯を口に入れた。やった!ついにやった!卵は長い精神的葛藤を繰り返しながらも、 オヤジの胃に入った。生卵が納豆の器に入ってから、胃に流し込むまでの作業は約20秒だった。早かった。生卵を 見たくないという意識が働いたのだが、猛烈に速かった。

 食品不信時代はこうして始まる。夜のテレビがカラス感染のニュースを流していた。オヤジは後悔しているの かしら。

<何だか分からない今日の名文句>

瀬を踏んで淵を知る

3月4日(木) カシオペアに乗りたい!

 朝、近くの本屋へ。前夜の社会部OB会で、久しぶりのお会いした森浩一・前スポニチ社長が 「大学で講義したり、故郷・長野関係のボランティアをしたり、楽しくやっている。 後は旅行だなあ。カシオペアで北海道に行ったんです。キミも行きなさい」と熱心に勧めた。

 そこで本屋に「個室寝台列車特集」の雑誌を探して、立ち読み。

 カッコ良いな。乗りたい。北海道に行きたい。

 上野午後4時20分。郡山あたりで7800円のフランス料理コース。森さんは踏ん張ってワインを注文したという。 「一度、眠って、青森あたりで目が醒める。天井がガラスで、夜空の星が流れる。函館を過ぎて、朝日が上る」と 森さんが説明したが、その通り。雑誌に「内浦湾の朝日」がグラビアになっている。幽玄。俺も行きたいな。

 でも切符が取れるのかしら。

 警視庁キャップだった森さんはそれこそ仕事一筋。「ロッキードの毎日」の名声を欲しいままにした軍団のトップの一人だったが、 今や、その時の厳しい面影はどこにもない。寝台列車に乗る人には思えなかった。

 スピード第一の敏腕記者が‥‥人間、変わるものだ。

 午前中は野暮用一件。午後4時、TBSに野暮用。みのもんたの“楽屋”に顔を見せ「春だから飲もう」と約束。 ラジオの収録に来ていたキャスターのシマちゃんと世間話。彼も毎日新聞社出身だから、話題はどうしても 「社長、監禁事件」になる。「みんな知らなかったよな」。週刊誌の方が詳しい。

 午後5時半、JRA六本木事務所。競馬ファンから「大レースの日、WINSのお客さんが多すぎて、 締め切り寸前のレースの馬券が買えない。当該レース専用の窓口を作ってくれ」というメールをいただいた。

 そこでJRA側の見解を聞いてみた。

 ファンサービス事業部投票課の石川豊副長が待っていてくれて、詳しく説明してくれた。その内容。

 @2003年GTレースが総売上げ金に占める割合は50・9%。(有馬記念が最高で64・2%)
 つまり半数がGTレースを買う。

 A従って、全窓口でGT購入可能な方が客の利便性バランスを考えるとベターである。

 B当該発売運用をした場合、端末がレースごとに「締め切り→入線」の間、約4分間、発売停止になる。それはマイナス。

 Cしかし、一部の窓口を「当該レース専用」の窓口を希望するファンもいる。そこで、平成2年の有馬記念当日、 実験的に後楽園7A投票所で「有馬記念を発売しない完全当該レース発売窓口」を実施した。

 だが「列に並んで窓口にたどり着いた後に、有馬記念が変えないと気づいたファン」で大混乱した。 仕方なく、途中で設定を変えた。通常に戻した経験がある。

 以上の点から、大レースの「当該レース専用窓口」設置は難しい、というのが、石川さんの回答だった。

 良く理解できた。最近のJRAは出来るだけデータをあげて、詳しく説明してくれるので助かる。 メールで意見を寄せた複数の方、以上、報告します。

 夜、ホテルオークラで京都から来た知人と夕食。「何故、親が子供を殺すのか」と言った根源的な話しから、 競馬、政局話まで。約3時間。楽しかった。それにしてもホテル隣のアメリカ大使館の警備は厳重の上にも厳重。 あまり良い気分ではない。

<何だか分からない今日の名文句>

過ぎゆく時間が愛らしい

3月3日(水) 毎日新聞社長 監禁事件

 オウム麻原一審判決の2月27日「毎日新聞社・斉藤社長、監禁事件」が公になった。恥ずかしい ことなのだが、その日、一日中、オウム関係の仕事で忙殺され、ニュースで「監禁事件」を知っても、 あとで聞けば良い、と言う程度の関心だった。

 自らが勤務する会社のトップが監禁された大事件? に、それほど関心を持たのかったのは、僕には 「新聞社のトップが脅されたり、監禁されたりするのは、日常茶飯事だろう」と思っているところが あるからだろう。

 事実、僕自身、一介の記者である僕だって、若いとき、新潟で「白トラ事件」(無免許のトラック運送 事件)で、妻を監禁されたこともある。「ピストルを持っている」と脅迫されたことも2回ある。その 一回は、その数ヵ月後、僕を脅していた人物が当時「政界のドン」を言われた人物を射撃した。殺人未遂 だった。

 「あの人、本当にピストルを持っていたのか」と冷や汗をかいたこともある。

 そんな感覚なので、新聞社のトップは脅されて当然、監禁されたとしても「傷つけられなくって本当に 良かった」と言う程度の意識だった。

 夕方、社会部OB会。斉藤社長が挨拶で「社会部記者だったので、特ダネを書いたことはありませんで したが、今日、書きました」と話した。

 会場、大爆笑だったが、何のことか分らなかった。隣の人に尋ねて、朝刊(3月3日付け毎日新聞3ページ  ニュースの焦点)に斉藤さんが「被害者として思うこと」という? 末記を書いていることを教えてもらった。

 最近、新聞を飛び飛びで読むので、気がつかなかった。

 後で、仕事場に戻り、その末記を読むことになったが、会場であった斉藤さんは、僕がオウムに追われて いたことを思い出してか「君、怖かったろう。僕も怖かった。殺されると思った」と話しかけてくれた。 社長も怖かったのだろう。

 「脚が浮いちゃってネ」と話す。多分、袋を被せられ、目が見えない状態で、担ぎ上げられた感覚なの だろう。斉藤さんは正直に「怖かった」を連発した。

 その通りだろう。そんな中でも「新聞社が脅しに屈したら、読者の信頼を失う」と要求を跳ね除けた。立派だ。

 斉藤さんとは、必ずしも意見が合うという間柄ではない方かも知れないが、立派だったと思う。

 先輩記者の事件の背景を聞く。それに寄れば「国際観光ホテルナゴヤキャッスル」は毎日新聞社が36・75% の株を持つ企業で、いわば毎日新聞社の子会社。ところが、前前社長の時、出入り業者の中に、その筋と関係が ある者が紛れ込んだ。そこで、前前社長を辞任した以降、厳しく「業者の選定」を行った。その折、取引を中止 された者が、今回の監禁事件を起こしたらしい。

 警察発表が遅れたのは、背後関係の捜査が長引いたかららしい。

<何だか分からない今日の名文句>

春が来た 春が来た 雪が来た

3月2日(火) 「下山事件資料館」

 午前中は大事な野暮用。春の経済的野暮用はこれで一段落。ホッとする。

 どうしたものかと、書き方を苦労していた「おけら街道」を何とか書き上げ、昼飯は 例の「蔵前デニーズ」。副編から携帯で「掲示板再開」の相談。やっぱり掲示板がない と物足りない。

 ホームページの先輩、有田さんの「酔醒漫録」を覗くと、森達也さんの力作「下山事 件」(新潮社)の話がまた登場している。有田さん、激賞している著作である。

 昭和24年7月5日、国鉄総裁・下山定則さんは三越本店で謎の失踪を遂げ、常磐線 で轢死体で発見された。

 「限りなく灰色」と思えるキャノン機関とその周辺にいた日本人を徹底取材した森さ んの力作を高く評価している。読んでみよう。

 それはそれとして、僕はWEBの「下山事件資料館」をお勧めしたい。実におもしろ い。運命の日、下山さん失踪までの155分間を徹底ドキュメントした読み物は微にい り差にいり、実におもしろい。

 筆者の名前は分からない。1964年生まれ。8歳の時、近所の山で拾った犬の頭蓋 骨を警察に届けたことがあるという。事件マニア?

 彼は「イナバ物置史観」なるものを持っている。下山事件は他殺、自殺、中には自殺 したのは兄で、本人はそのまま、失踪したという「生存説」まであって、他殺説にも、ア メリカ、ソ連、日本政府、日本共産党、キャノン機関、北朝鮮……と多種多様。この「 下山事件資料館」の筆者は「下山さんは100人いた」と考える。イナバ物置には10 0人乗っても大丈夫。下山事件は推理が100通りあって仕方ない、そう言う範疇の話 だというのだ。そう考えると森さんの「下山事件」も100人の史観の一つと考えるべ きなのか。

 ありとあらゆる推理をめちゃくちゃに載せているのがWEB「下山事件資料館」。暇 があったら覗いて見たらいい。何しろタダだから。

 夕方、新橋の「九州・筑紫路」(港区虎ノ門1−12−5 第二土橋ビル1階)。親 友2人と夕飯。この店、始めてだったが、実に美味。烏賊、あじ、有明の魚、名物の鳥 ラーメン(ちょっと塩が濃かったが)どれも逸品だ。

 九州弁の女将さんが優しくて、また良い。30数年、この地で商売をしていたが、実 は、女将さん、80を越すお母さんの介護のため6月に店を畳み、故郷・柳川に帰るん だそうだ。

 残念。実に残念。

 競馬法改正案、自民党総務会を通り、5日閣議決定の運びになった。「学生、生徒も 20歳以上なら馬券購入可」という項目に社民党議員一人が難色を示した、と聞くが、 甚だ時代遅れの感。

 イラクでシーア派狙いの同時テロ。170人以上死ぬ。内戦状態。

<何だか分からない今日の名文句>

イラクは啓蟄のわくら葉

3月1日(月) 村井事件の謎

 3月がスタートした。午前中、確定申告→納税の事務処理。こうして、ことしも春がはじまったのか、 と思ったら、突如、時ならぬ吹雪?  隅田川を雪が横殴り。異常気象。防水のブルゾンで外出する。寒い。

 麻原関連事件のファイルを改めて整理してみる。謎があまりにも多い。 サリン製造の中心人物だった村井が殺された。ヤクザを使ってキーマンを惨殺した「影の人物」は一体、誰なのか。

 その時点で「村井殺害」に賛同?したと思われる人物は現教団にいるのではなか、と疑る人もいる。 でも、もっと大物がいるはず。外国との関係も手付かずだ。

 マイクロ派照射機に接続したドラム缶に入れられ焼却された信者の死体が3体あった、 と供述した者もいた。これも未解明。いずれにしても、10人程度の信者が不審の死を遂げている。

 オウムの謎はこのまま残る。そして、風化する。風化していいものと、風化させないものを峻別しなければ。

 麻原の二女が傍聴していたらしい。彼女をインタビューしたい気持ち。だが、あんな騒ぎに巻き込まれるのも考え物だ。

 仕事場に近い「ギャラリーURANO」から「江戸・東京・下町界隈 浮世絵展」の案内状が来る。 小林清親「元柳橋両国遠景」が出るらしい。見に行きたい気分。歯医者の後、大丸の書籍売り場を覗いて出社。

 3日午後6時の「社会部OB会」のことを聞く。先輩の接待が我ら編集委員の仕事らしい。

 仕事場に帰って「おけら街道」を書く。朝日新聞の「天声人語」を書いた大先輩から、こんなことを書いてくれ、 と言われた。書きたいのだが‥‥ちょっと意見が違うので、書き方に工夫。時間が掛かる。

 寒い一日だった。

<何だか分からない今日の名文句>

春が来た 春が来た 雪が来た

2月29日(日) 僕と広岩君の「麻原」

 27日はオウム真理教・麻原一審判決。午前10時半から約1時間、傍聴する。

 もっとも関心のある「サンデー毎日との関係」について判決理由は以下のように述べた。

 「サンデー毎日編集部は1989年9月下旬ごろ、子供の家出人捜索願いを警察に提出している者を 始めとする教団信者数人から、座談会形式で、教団は出家と称して未成年者を含め子供を親から隔離 しているなどの話を取材し、さらに坂本弁護士、教団側などから取材した上、同年10月から『オウム 真理教の狂気』の連載を始めた。

 記事の内容を知った被告は、早川紀代秀らを連れてサンデー毎日編集部に押し掛けて抗議し、編集部の ある毎日新聞ビルや牧太郎編集長の自宅付近で抗議のビラをまかせたり、毎日新聞社ビルを爆破するため の下見をさせるなどした」

 判決理由では、サンデー毎日の取材について、教団にたいしても取材したことを書いてある。当然の ことではあるが、一方的な取材でなかったことを述べており、十分、納得できる記述だった。

 判決は「毎日新聞爆破計画」があったことを認めた。判決が認定した「下見」とは、まだチンピラだった 上祐が信者数人を連れて、編集部にやってきて、ビデオで社内を撮影したことなどを言うのだろう。

 休日を利用して、社内に100枚以上のをビラを貼った神業が可能だったのは、そのビデオがあったから だろう。もし、ダイナマイトが手に入れば、どんな大惨事になったかと思うと、冷や汗が出た。

 弁護団は編集部は公開の場と抗弁して「下見」する必要はない、と言ったらしい。ヘンな弁護団だった。 その「下見」キャップの上祐が今、後継者(教団の中で孤立しているという情報もあるが)。

 朗読が「毎日新聞爆破計画」に進むと、何故か、麻原はニヤニヤと笑った。

 事件の捜査段階で「始めは牧をポアするつもりだった」という証言もあったようだが、これには触れて おらず、気分的には助かった。もし坂本弁護士殺害が「牧の代わり」という風に認定されれば、今以上に 僕は「重い鎖」を引き摺ることになるだろう。

 数年前、鎌倉・円覚寺の坂本さんの墓に詣でた時、階段で、たまたま坂本さんのお母さんにすれ違った。 その折「牧です」と挨拶したが、お母さんは僕のことを無視した。気がつかなかったのか、あえて「無視」 されたのか、分からない。でも「無視」したい気持ちになったとしても、理解できる。お母さんに言わせれ ば‥‥その時のことが、胸に残っている。

 判決死刑。当然だ。裁判長は「極限の非難」という言葉を使った。毎日新聞用の傍聴記を書き、スポニチの 電話取材に応じる。裁判所の裏話は「ここだけの話」に書くつもり。

 28日朝一番で、広岩近広君から携帯。「傍聴記、読みました。長い長い歳月でした。ご苦労さまでした」 と言われた。

 一連のオウム追及は、広岩君が中心になってやってくれた。坂本さんが拉致された直後、麻原はボンに逃げたが、 その後を追ったのも広岩君だった。やっと捕まえた広岩君に麻原は「殺すんだったら牧だ」と言った。広岩君 に生命の危険を感じ、ベルリンを経由して帰国しろ、と命じたのを昨日のように覚えている。

 広岩君がいなければオウム取材は出来なかった。今でこそ「オウム取材と言えば、江川さん、有田さん」と 言われるが、広岩君の取材はその時点では、かなり先行していた面がある。フリーではなく、企業ジャーナリスト なので人事異動もあり、広岩君はオウム取材だけを続けることは出来なかったが、僕に言わせれば「オウムと 言えば広岩」である。

 裁判でも彼は証言に立ってくれた。失語症が重かったこともあって、僕は証言に立たなかったが、判決理由 では彼の証言がそのまま採用された。

 「元気か?」と聞けば「元気です」。「異動は断ったのか?」と聞けば「ええ、北陸作戦を頑張らなくては いけないから」。彼、聞くところによると、昇進の話を断って北陸総局長を続けるらしい。古都・金沢が好きで しょうがないらしい。

 気分転換に中山競馬場に行く。4レースで7万円馬券ゲット。200円だが14万円で痛快。東スポのナベちゃんが 「良く働いたご褒美だ」と言ってくれた。ともかく、今週は書きまくった。

 29日はボサッと過ごす。明日は3月。六ヵ国会議は何も動かなかったが、多分、北の揺さぶりが続く だろう。

 そうそう中止中の掲示板。常連の活躍で少し難しい(難解の)広場になったような感じもある。ちょっと トゲトゲしたやり取りもあったので、冷静期間と思ってください。

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